■新・汽車旅日記~平成ニッポン、いい日々旅立ち


杉山淳一
(すぎやま・じゅんいち)


1967年生まれ。東京出身。東急電鉄沿線在住。1996年よりフリーライターとしてIT、PCゲーム、Eスポーツ方面で活動。現在はほぼ鉄道専門。Webメディア連載「鉄道ニュース週報(マイナビ)」「週刊鉄道経済(ITmedia)」「この鉄道がすごい(文春オンライン)」「月刊乗り鉄話題(ねとらぼ)」などWebメディアに多数執筆。




第1回~第50回まで

第51回~第100回まで

第101回~第150回まで


第151回:左に海、右に山
-予讃線 今治~多度津-
第152回:平野から山岳へ
-土讃線 多度津~阿波池田-




■連載完了コラム
感性工学的テキスト商品学
~書き言葉のマーケティング
 
[全24回] 
デジタル時事放談
~コンピュータ社会の理想と現実
 
[全15回]

■更新予定日:毎週木曜日

 
第153回:吉野川沿いのしまんと号 -土讃線 阿波池田~後免-

更新日2006/08/03

阿波池田駅は四国の駅の中では大きなほうだ。高知や松山は県庁所在地駅なのに3列車しか対応していないけれど、阿波池田は島式ホームが2本あり、4本の列車が停車できる。留置線の数も多く、貨物列車の基地になっていたのかもしれない。香川と高知を結ぶ土讃線と、徳島へ向かう徳島線の列車が接続する駅で、四国の鉄道網の中心と言えるポジションだ。阿波池田は徳島県の西の端にあって、実は瀬戸内海のほうが近い。もし西へ鉄道が敷かれ、瀬戸内海に通じていたら、愛媛県の松山とも連絡できたはずである。

阿波池田を出ると、車窓にグラウンドが見えた。野球の練習をするところだろうか。そういえば池田は高校野球でも有名だ。1974年春の選抜大会で準優勝した池田高校の、"さわやかイレブン"のエピソードは伝説といってもいい。この時、徳島県立池田高校の野球部はたったの11人。率いるは元プロ野球選手の蔦文也監督だった。野球チームは9人編成だが、連戦の疲労を考えれば交替選手は多いほどよく、控え選手ふたりは少なすぎる。田舎の弱小チームだと思われた池田高校は、意外にも強い攻めで勝ち進み、観戦者たちを熱狂させた。スポーツに興味の薄い私でも、池田高校と蔦監督の名前くらいは知っている。


徳島自動車道と吉野川と野球場。

しまんと3号はトンネルを通り抜けると川沿いに出た。上空の高いところに長くて立派なコンクリート橋が架かっている。徳島自動車道である。もし鉄道が阿波池田と瀬戸内を結んでいたら、と書いたけれど、まさにこの道が瀬戸内と徳島を結んでいる。徳島と松山を結ぶバスの所要時間は3時間。JRの特急なら高松経由で3時間半。しかも乗り換えが必要で、悔しいが鉄道に勝ち目はない。

しかし、車窓の楽しさは鉄道が勝ると思われる。特に瀬戸内から高知へ抜けるルートは間違いなく鉄道の勝ちだ。高知自動車道は山道の土佐北街道沿いを通るけれど、土讃線は吉野川沿いの谷に沿っている。阿波池田から南へ、高知平野の手前まで四国三郎と伴走だ。沿線には景勝地の小歩危、大歩危がある。川の上の駅として知られる"土佐北川"も通る。特急列車で通過するにはもったいない区間である。私は地図を眺め、左右のどちらの窓をチェックすべきか検討した。

土讃線の渓谷美、最初のポイントは祖谷渓だ。吉野川の池田付近はダムになっており川幅が広い。川幅が狭くなる辺りから祖谷渓になる。いったん川から遠ざかってトンネルに入り、出ると鉄橋、そしてすぐにもうひとつのトンネルに入る。これを抜けると車窓左手に渓谷沿いの景色が始まる。しばらく景色を眺めたのち、阿波川口を過ぎてトンネルに入る。今度のトンネルは長くて2キロ以上もある。土讃線はもともと川沿いを通っていたが、1950(昭和25)年にこのトンネルが開通してルートが変更された。スピードアップのためだから仕方ないが、風景を楽しむ身としては、余計なことをしたなと思う。

長いトンネルを抜けた後も、断続的に小さいトンネルを潜っている。もしかしたらトンネルではなく、落石覆いかもしれない。これから景勝地の小歩危なのに……と思っていると、車内放送のテープが小歩危、大歩危の由来を説明しはじめた。私はなんとかして車窓の風景をカメラに収めようとしたけれど、トンネルが続くからうまくいかない。私は撮影を諦めて、しっかりこの目で景色を見届けることにした。私は車窓を眺める旅をしているのであって、写真を撮ることは第一の目的ではない。カメラを持っていると、時々それを忘れてしまう。

大歩危、小歩危、どちらも危険の危の字がついている。歩いて危険、つまり峠の難所、川を渡るにも危険な場所だったのではないか、と予想する。大きい、小さいの字は、歩幅を示すそうだ。大歩危は大股で歩くと危ない、小歩危は小股で歩いても危ない。川岸の岩の配置をそのように表現したものだろう。それなら大歩危は小股で進み、小歩危は大股で進めばいいのか、などと考えてはいけない。これは険しさの例え話にすぎないし、もともと道はあったはずだ。


こんな風景が次々に現れる。

小歩危、大歩危は期待通りに変化に富む渓谷だった。川面は乳色が混ざった緑色。食べかけのクリームソーダのような色だ。晴れていればもうすこし緑色が鮮やかかもしれない。川岸に岩が露出している様子は木曽路の寝覚ノ床にも似ている。しかしこちらのほうが距離が長い。寝覚ノ床はどんとステージが設けられた劇場、大歩危小歩危は大小さまざまなライブハウスの集合、といったところか。

小歩危は水嵩が少なく蛇行し、波立つ場所が多いから、ゴムボートで川下りをしたら楽しそうだ。大歩危は川面が穏やかだが、川岸が断崖なのでたどり着く場所が少ない。歩くよりも、川船にとって難所なのかもしれない。私はふと、宿毛の歴史館で見た地図を思い出した。京からの支配者が通った道も、幕末の志士たちが近畿を目指した道も、ここを通っていたはずだ。

しまんと3号は小歩危を通過し、吉野川を渡って大歩危に停車した。観光の拠点は大歩危駅になっているようだ。線路の形を線形と言うが、大歩危、小歩危の線形はなかなか良くできている。途中で川を渡るから、左右の車窓のどちらからも渓谷美を眺められる。しかし、鉄道を設計する際に車窓を配慮したわけではない。川沿いに線路を敷く場合は、なるべくなら鉄橋なんて金のかかるものを使わずに済ませようと、貴重な平地を結んでいく。しかし、どうしてもここで対岸に渡るべきだ、という場所でやっと川を渡るのだ。

大歩危駅を発車してしばらく走ると大歩危トンネルに入る。全長は4キロ以上。ここも川沿いの旧線からトンネル経由に切り替えた部分だ。大歩危トンネルの開通は1968(昭和43)年である。土木技術の進化と鉄道の高速化を進めるため、土讃線はどんどんトンネル経由に付け替えられた。このままトンネル区間が増えれば地下鉄になるのではないかと思うほどだ。それだけに車窓から見える大歩危、小歩危の景色は希少価値がある。やっぱり各駅停車にすれば良かったな、と時刻表をめくってみる。多度津から高知まで、各駅停車を乗り継ぐと4時間かかる。この景色が、特急列車の倍の時間をかけて眺められる。休日が少ないから急ぐ旅になるけれど、本当は各駅停車の旅をしたい。


鉄橋の上の土佐北川駅。

しまんと3号は通過扱いの豊永駅で停車し、上りの特急を待った。こちらを待たせて上りを通過させるダイヤということは、上り列車のスピードを優先したダイヤが組まれていると言うことだ。岡山で新幹線と接続する時刻を重視したのかもしれない。四国の鉄道にとって本四連絡橋の誕生は大事件だった。いままで島の中だけで完結できたダイヤが、本州と陸続きとなった。だから四国内の列車の遅れが本州に影響する。とにかく定時で橋を渡れ、そんな号令が聞こえそうだ。

さて、列車はなんとなく下り坂を走っているような気がする。しかし、上り勾配が緩くなったための錯覚なのだろうか。そう思う理由は、吉野川の流れの向きが変わらないからだ。通常、山脈や山地を超えれば、川の流れは逆になる。その境目を分水嶺というが、四国山地の分水嶺はどのあたりだろう。不思議だな、と思っているうちに吉野川を離れ、列車はトンネルに入った。トンネルを出るとまた川に沿っているが、これは吉野川ではなく支流の穴内川である。やはり進行方向に逆流している。水流が早いせいか、水が澄んでいて川底が見えた。

9時55分、大杉駅発車。ここから先はトンネルの連続だ。暗い車窓の連続で軽い眠気を感じつつ、ふと、妙なことに気が付いた。特急しまんと、という名前である。行程のほとんどが吉野川に沿っているのに、なぜ列車名は四万十川に由来するのか。この列車は高知止まりで、車窓から四万十川を望めないのだ。特急吉野、あるいは特急吉野川のほうが相応しいのではなかろうか。かつて徳島線によしのがわという名の急行が走っていた。しかし今は走っていない。ならば特急の名前に頂いてもよさそうなものである。川と共生してきた四国の人々なら、この名前は私以上に納得できないと思う。


峠道を降りていく。

トンネルを抜けた後、またスイッチバックの駅が見えた。時刻表を見ると新改という駅だ。各駅停車が停まっていた。スイッチバックは山岳路線の険しさを示している。私は車窓を眺めたいから駅にはこだわらない。しかし土讃線には降りたい駅がいくつもあった。しまんと3号はいまだに山岳地帯から抜け出せず、断続的に小さなトンネルを潜って高知平野に出た。

特急しまんとが四万十川にたどり着けないように、私も高知にたどり着けない。ひとつ手前の停車駅後免で降りて、土佐くろしお鉄道で室戸岬を目指す予定だ。

-…つづく

第144回からの行程図
(GIFファイル)