■現代語訳『風姿花伝』
  ~世阿弥の『風姿花伝』を表現哲学詩人谷口江里也が現代語に翻訳

第四回: 風姿花伝その一
      年齢に応じた稽古のありよう 十七、八歳より

更新日2010/02/11


風姿花伝 その一
年齢に応じた稽古のありよう
十七、八歳より

 

 この年の頃は、大変大切な時期であって、ただたくさん稽古をすればよいというものではない。なにより、声変りをしてしまうので、時分による最初の花が失せてしまう。身体も腰高になり、童形(どうぎょう)の頃の、見ていてはっとするような姿かたちの妙も消え、過ぎ去ってしまった頃のように、声も良く通る華やかな能が簡単にできることもなく、どうしたら良いかも分らなくなってくるので、本人自体がやる気を無くしてしまいかねない。

  その結果、観客の目にも、変に映ってしまっているのではないかと感じたりすれば、なにやら恥ずかしい気分にもなって、気力も萎えてめげてしまう。だからこの頃は、稽古をしていて人に笑われるようなことがあっても、とりあえず声が出ない風を装い、あえて宵(よい)や暁(あかつき)の声のような、ちょっとかすれた声を使い、その分、心の中では精一杯、なんとか良くなれよと願う力を呼び起こし、ここが一生の分かれ目だぞと、生涯をかけて能をやり抜く覚悟で稽古をする以外にない。

  ここで諦めれば、その時点で能の上達は止まってしまう。ちゃんと声が出る出ないは人によるけれども、一般的には、音階の八番、十番あたりの黄鐘(わうしき)や盤渉(ばんしき)の音を用いるようにすると良い。 声の調子にばかり気を取られ、高い声などを出そうとしてあまり無理をすると、動作にそれが表れてしまうし、年をとってからの声に、その無理が出てきたりもするので良いことはない。