■現代語訳『風姿花伝』
  ~世阿弥の『風姿花伝』を表現哲学詩人谷口江里也が現代語に翻訳

第五回: 風姿花伝その一
      年齢に応じた稽古のありよう 二十四、五歳より

更新日2010/02/18


風姿花伝 その一
年齢に応じた稽古のありよう
二十四、五歳より

 

 この頃になると、その人の一生の芸能のありようが定まり初(はじ)める。つまり稽古も、この時期こそが境目と知って行う必要がある。この頃になれば、声変りなどもすっかり終わって、声も體も、その人なりに定まってくるが、能の道を求める者にとっては、この時期は、二つの果報というべきものが得られる時期だ。それはすなわち声と身なりであって、この二つは、この時分に定まると言って良い。また芸能の観点からも、熟練の始りともいうべき時期であって、そのようなことから、おお新たな上手が現れたぞと、人が目を留めたりもする。

 
もちろん、名人だなどと人から言われたとしても、ただ単に、しばらくのあいだ限りの当座の花として珍しがられているだけであって、舞台の上で優劣を競う立合勝負などでたまたま勝ったりすれば、まわりの人も贔屓目で見たり、本人も自分が上手であると思い始めたりもするが、これはどう考えてみても、本人にとっては仇(あだ)いがいのなにものでもない。この頃の花は誠(まこと)の花ではなく、若い盛りである演やり手と、観る者との心が織り成す一瞬の、珍しさゆえの花であって、そのあたりのことを、本当の目利きは、ちゃんと見分けなくてはならない。この頃の花こそ、初心の花というべきであるのに、それを、道を極めたと本人が勘違いして、はやくも、申楽とは云々と、知ったかぶりをして的外れなことをまわりに言いふらしたり、まるで名人でもあるかのような振舞をしたりするのは、あさましい事というほかにない。たとえ人が褒め、舞台を共にした名人よりも良かったなどと言われたとしても、これは単に、その場限りの珍しさあっての花と自らが覚(さと)って、ますます物まねの稽古にも励み、さらには、達人たちにいろんなことを細かく聞いて、いっそう稽古を増やして精進するしかない。そうしないと、なにより、時分の花を誠の花と勘違いするその心によって、真実の花に至る道から、どんどん遠のいてしまう。

  ただ、そうはいっても、この時分の花に惑わされてしまって、やがていつのまにか花を失ってしまうような人もいる。初心の花と言うべきというのは、このことを指す。まずはよくよく考え、公案のうえに工夫を重ねて、自分の芸の位がどの程度かを虚心坦懐に見定め、それを心得るならば、そこで得た花は生涯失われることはない。それを自分の位より上の上手と自惚れてしまえば、もともとあった素質がもたらしてくれた位すら失ってしまうことになる。このこと、よくよく心得なければならない。