■現代語訳『風姿花伝』
  ~世阿弥の『風姿花伝』を表現哲学詩人谷口江里也が現代語に翻訳

第七回: 風姿花伝その一
      年齢に応じた稽古のありよう 四十四、五歳より

更新日2010/03/04


風姿花伝 その一
年齢に応じた稽古のありよう
四十四、五歳より

 

 この頃になると、能のやりかた、手立(てだて)そのものを、大きく変える必要がある。たとえ能の名人であるということを天下に許され、自分でも能を会得したと思ったとしても、それでも、脇(わき)には良い為手をつけたほうが良い。この頃になると、能そのものは下がらなかったとしても、力もなくなり、だんだん歳を取るにつれて、自分自身の身体の花も、観る人々の目に映る花も、しだいに失われてしまう。先(ま)ず基本的なこととして、よほどの美男ならばいざしらず、そこそこ容貌が良かったとしても、面をつけない素顔の直面(じきめん)の申楽は、年寄りがやったのではみられたものではないので、やらないほうがいい。つまり数ある面の中の一つは、なくなってしまうと考えなければならない。

  またこの頃になると、あまり細かな物まねなどをしてはいけない。基本的には自分に似合った風體(ふうてい)をして、ことさらに骨を折らなくても簡単にできることをし、脇の為手に花を持たせるように努め、その為手に何気なく合わせるように、自分の動きはできるかぎり少なめ少なめにするとよい。たとえ脇の為手がいなかったとしても、その場合はよりいっそう、無理に体を動かして細かな技をするような能はすべきではない。そんなことをすれば、なにより観客の目に花のある能としては映らない。もしも、このころになってもなお失われることのない花があれば、それここそ誠の花と言うべきではあるけれど、ただその ためには、つまり五十近くになっても失われない花を持つ為手であるには、四十前に天下の名望を得ているようでなければならない。

  また、たとえ天下に受け入れられた為手であっても、それならばなおさら、自分のことを良く知っているはずであるから、ますます脇の為手にまわることを嗜(たしな)んで、そのよ うな動きに努め、難が見えないような能をするとよい。そのように我が身を知るということこそが、能を得(え)とくした人の心得であると言って良い。