第六十一回
風姿花伝 その七
別紙口伝 その九
因果の花を知ることは、究極の心得、すなわち極意である。すべては因果であって、初心の頃から習い覚えた芸能の数々は因であり、能を極めて名声を得たとすれば、それが果にほかならない。したがって、因であるところの初期の稽古をおろそかにすれば、結果としての果を得ることは難しい。このことを良く知っておくべきである。
また時分という、いわば時の運、あるいは働きというのも、決して軽んじてはならないことであり、それは実際、恐ろしいほどの力を持っている。たとえ去年、花の盛りにあった花も、今年はそれが消え失せてしまうことがあるということを、知らなくてはならない。また時にも、男時(おどき)・女時(めどき)というものがあり、能を演ずるにあたって、どのようにしたとしても、良い時もあれば、悪い時もかならずある。これは人の力や働きがおよそ及ばない因果であって、それをよく心得ておく必要がある。
したがって、何をどうやっても上手くいかない時分の、それほど重要ではない申楽の際には、同じ舞台に立つ共演者との立合(たちあい)、すなわち勝負にあまりこだわらず、自分が勝つことに執着したりなどせず、また頑張りすぎたりもしないで、たとえ勝負に負けても気にしないように心掛け、力や手を貯(た)め、控えめ控えめの能をしたほうが良い。そうすれば、見物衆もそのときは、これはどうしたことかと、少なからず興醒めた想いを抱くかもしれないが、逆に、大切な申楽の時に、こんどは手立て、やり方を変え、ここぞとばかりに得意中の得意の能を、一所懸命、精励というべき演技を精魂を込めて行えば、見る人から予想外の感動を引き出すこともできるので、大切な大勝負の、肝心の立合に必ずや勝つことができる。これもまた、珍しさ、新鮮さということがもたらす効用であって、悪かったという因があったからこそ手にすることができる果にほかならない。
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