第二十九回
風姿花伝 その四
神儀ということについて
申楽の始り その三
一、日本国においては、欽明天皇の時代、大和の国の泊瀬(はつせ)という河が洪水を起こした際に、河上から、壺が一つ流れ下ってきたが、三輪山の大神神社の境内の杉の鳥居の近くで、それを、殿上人である雲客(うんかく)が目にして手に取ると、中に生まれたばかりのみどり子が入っていた。顔形は柔和
(にゅうわ)で、まるで玉のようだった。これは天から賜った降人(ふりびと)だからということで、雲客はみどり子を御所の内裏(だいり)に連れて行き、天皇にいきさつを申し述べた。ところがその夜、帝の夢にそのみどり子が現れ、「我は大陸の秦始皇帝(しんのしこうてい)の生まれ変わりである。この日本国に縁あって、こうして今ここに居るのだ」と言ったとのこと。これは奇特なことと思われた帝は、その子を殿上人として召し育てることとした。その子は成人すると、人より秀でた才智の持ち主となり、十五の年には、大臣の位まで上りつめ、帝から秦(はだ)という姓を賜ったのだった。「秦」という文字が「はだ」と読めるが故に賜った姓であり、その人こそ、秦河勝にほかならない。
さてそのころ、上宮太子こと聖徳太子が、天下にすこし乱れがみられたので、神代の時代の佛在所の吉例にならって、六十六番の物まねを奉納することを考えられ、それを秦河勝にやらせることにし、そのために六十六のお面をお作りになり、それを用いての物まねの興行を河勝に命じられた。それが執り行なわれたのは、橘の内裏、紫宸殿であったとされている。それによって天下は治まり、国も平穏になったので、聖徳太子は、これを末代にまで伝えるにあたって、もともとは神楽と呼ばれていたその神の字の偏を取って旁(つくり)だけを残された。そうすると、その字は暦でいう申であるため、それいらい申楽と呼ばれるようになったとのこと。これはまた、楽しみを申すという意味でもあり、神楽と区別するためにそうされたともいわれている。
この河勝は、欽明、敏達(びだつ)、用命、崇峻(すしゅん)、推古、上宮太子に仕え、この藝を子孫に伝えたが、河勝は、生まれ変わり人、すなわち化人であるために、化人はその足跡を残さないという言い伝えの通り、大木を切り抜いて造ったうつぼ船に乗って、風に吹かれるままに西海に出て、播磨国(はりまのくに)の越坂浦(しゃくしのうら)に着いた。浦人が船を岸にあげると、その船がたちまち姿を変えて人の形になった。それは人々に目出度いことをもたらしたので、人々はこれを神と崇め奉ったところ、国は豊かになったという。それで大いに荒れると書いて、その神社を大荒(おおさけ)大明神と名付けたが、いまでも霊験あらたであるという。ご本体は、毘沙門天王(びしゃもんてんおう)であり、上宮太子が謀反人守屋を平定された際にも、この河勝の神通方便の力によって、守屋は敗れたといわれている。
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