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■音楽知らずのバッハ詣で
 

第3回:ライプツィヒという町 その2

更新日2021/11/11

 

教会はギリシャの劇場やオペラハウスとは全く異なる音響を持っている。ハナから音響などは全く考慮に入れずに建てられているのだ。ところが、聖トーマス教会の音響は素晴らしい…と感じるのは、バッハの魂か、こちらの思い込みなのだろうか。

ゴテゴテ、キンキンキラキラのカトリック大聖堂や教会に比べると、聖トーマス教会は田舎町にある貧相な教会のように観える。おまけに祭壇のある部分が2、3度くらい左に偏っているのだ。祭壇が真っ直ぐ会衆に向かっていないのだ。大げさな言い方をすれば、会衆が座る本堂にひん曲がった祭壇をとって付けた風なのだ。こんな教会は類がない。何でも四角四面に事を成す…と思われている、勝手に思っているだけなのかも知れないが、ドイツ人気質にソグワナイ有様なのだ。

中世からの大聖堂、教会、市庁舎は代々建て替えられ、補修、増築を繰り返し、何百年単位の年月を経て現在に至っている。その過程で祭壇部分が歪んだとも、初期の工事の時に地盤の関係でそのように建てられたとか、言われている。だが、地震が多く、地盤が安定していないと言われるイタリア、土地が柔らかく土台を固定しにくいと言われているイギリスや北ドイツでも、こんなひん曲がった祭壇を持つ教会はない。

No3_hall-sketch
1885年の聖トーマス教会内部のスケッチ。
内部の大改修工事が行われる前の絵で、
祭壇の上にあるボックス席は今はない。

No.3_mitorizu
聖トーマス教会の見取図というより、バッハ・フェスティバルの
ための指定席分割図だから祭壇にまで席を設けてある。
祭壇(Alter)が曲がっているのが見て取れる。

そして、スケールも小さい。詰め込んでも2,000人も入るかどうか。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂(別名;セントピーター寺院)や、ロンドンのセントポール、セビリアの大聖堂を見た目には、なんじゃこりゃ、こんな教会なら、ヨーロッパの田舎町に何千何万とあるではないかといった程度の大きさだ。それでも、聖トーマス教会にはスッキリとした清楚な美しさがあるとは思う。が、それもバッハがここで長い晩年を過ごし、演奏したという思い入れがそう感じさせるのだろうか。

ただ、バッハがこの貧相な教会のカントル(Kantor)=音楽監督を長い間勤め、膨大な曲を作ったという一点だけで、私のような野次馬が訪れ、観光客も集まり、教会音楽の聖地になったと言い切ってよいだろう。当のバッハ先生はこの地で亡くなるまで、何とかライプツィヒから脱出しよう、他の地でもっと実入りの良い仕事をしようとアガイテいたのだが…。

No.3_gaikan-sketch
1731年から32年にかけての拡張工事が行われる前のスケッチ。
バッハがカントルに在籍中のことだ。バッハの銅像はまだない。

No.3_Hall_photo
聖トーマス教会内部、柱は漆喰を白く塗り込めただけ、
天井を支える赤く見えるアーチ部分も赤く塗っているだけだ。
この写真は、祭壇から後方に向けて撮ったもので、
2階にパイプオルガン、その手前に聖歌隊、オーケストラの席がある。
この飾り気のない小さな教会がバッハのホームグラウンドだった。
 


七十余年の人生の中で、自分らしからぬ蛮勇を奮うことがある。
聖トーマス教会でオルガンの練習を聴いていた時がそうだった。小一時間もポツネンと座って聴いていた。オルガンの音が止み、ガタンガタンと何かを片付ける音が響き、それと共に、それまでオルガンの前だけに点いていた電灯が消され、それから、奏者が階段を降りてくる足音が響いてきた。私はその足音の方へ、どういうつもりだったのか歩み寄って行ったのだ。

降りてきたのは長いマントのようなガウン、オーバーコートを着た顔の小さい痩せた若い女性だった。私は彼女に、「すばらしい演奏を聴かせてくれて、どうもありがとう」と言ったのだ。こんなことは、普段、私にできることではない。彼女は突然現れた東洋人にちょっと驚いたようだったが、私よりはるかに流暢な英語で、「どうもありがとう、聴いている人がいるなんて知らなかった。ブクステフーデはお好き?」、言葉短く返し、それじゃとばかり、もう一度階段を上り、オルガンの席に着き、私一人のために演奏してくれたのだった。

今回は途切れ途切れではなく、全曲通して演奏してくれたのだった。彼女の演奏レベルがどの程度のものだったか、私に語る資格はない。私は、ただひたすら震撼し、全身が痺れるように泡立った。

ゲバントハウスへ行く道を尋ねると、案内してあげるわね…と、旧市街から離れた動物園脇の木造の建物まで連れて行ってくれたのだった。

当時、まだオペラハウスもコンサートホールも再建されておらず、大学内のセントポール教会も崩れたまま高い塀に囲まれていた。有名なゲバントハウス・オーケストラ(管弦楽団)の本拠は、木の骨組みをワインカラーに塗り、他は白壁の古臭い校舎のような建物なのに驚いてしまった。というのは、共産圏の国々の市庁舎、お役所ビルが揃いもそろって豪壮な、人はスターリン風と馬鹿にするのだが、大鷲が翼を広げたようなワンパターンの建物で、共産主義の権威を顕示するかのようで、いささかウンザリさせられていた。世界的に名の通ったオーケストラが、そのままホールの名前になっているくらいだから、きっと共産主義の威信をかけた立派な建物に違いないと思い込んでいたのだ。ところが、目の前にあるのは、日本で戦前に建てられた校舎同然のものではないか…。

何しろ50年以上前のことだ。記憶も曖昧で、彼女の名前すら思い出すことができない。古いゲバントハウスへ行った時、一緒に彼女のボーイフレンドや友達が4、5人一緒だったから、聖トーマス教会で彼女のオルガンを聴いた次の日だったのかもしれない。

ゲバントハウスと呼んできたが、正しくは“コングレスホール(Kongresshalle)”と言い、そこを根城にしてゲバントハウス・オーケストラが活躍していた。そこは環状線、といってもチンチン電車がぐるりと回っている旧市街の外にあり、歩いて15~20分ほどかかる距離にあった。

私はオルガニストの彼女ら一行にゲタを預けた形で、ライプツィヒの街を歩いた。ワーグナー、メンデルスゾーン、ゲーテとシラーの銅像、旧市庁舎、旧証券取引所、バッハ博物館(アルヒーフ=ライプツィヒ・バッハ資料財団)などなど、連れられるまま見て歩いたのだった。

東ドイツ(GDR)のヴィサ取得には、旅程を前もって決めなければならなかった。途中で予定を変更したり、日程を延ばしたりするのは不可能ではないだろうけど、時間のかかる手続きが必要だと、想像された。もう2、3日、ライプツィヒで過ごせたら…と思ったが、適わぬ夢だった。

彼女らは豪壮な駅、プラットホームまで送ってくれた。その時、彼女が茶色の紙袋を、「これ、お弁当よ…」と手渡してくれた。若者たちはそれぞれに、「また来てね、早く私たちが西側に行けるようになるといいのだけど…、それまで待っていたら、私たち皆お婆さんになっているわね…」と、明るく笑って別れたのだった。

老人の追憶の悲しさでどうにも年代がはっきりしないのだが、私のライプツィヒ訪問は1970年代の初め、72、73年のことだったと思う。誰もが予想しなかったあっけなさで、1989年10月にベルリンの壁が崩され、一挙に東西統合に走るのだが…。

それから始まった『バッハ音楽祭』に10回も通うことになるとは、想像もしなかった。

茶色の紙袋には、ドイツ的な固い黒パンにハムのサンドイッチ、そして萎びたリンゴが入っていた。

 

 

第4回:ライプツィヒという町 その3

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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