第402回:流行り歌に寄せて No.202 「時には母のない子のように」~昭和44年(1969年)
私は、机とベッドとクローゼットと流し台が備わり、それでも、それらの家具をも含めて部屋全体が4畳ほどの広さしかなかった、中目黒にあるアパートに住んでいたことがある。19歳の9月から、26歳の3月までの約6年半の間だった。
いわば青年時代の真っ只中だから、今考えれば無茶苦茶な時代だったと思う。もう一度同じことをするか?と聞かれても、いや、もう遠慮したい、と答えてしまうような出来事ばかりだった。
その間、いろいろなものを置いたり、捨てたりしてきたが、ベッドの脇の壁に貼った1枚のピンナップだけは、引越しをする時にボロボロで剥がすことが叶わずに破れてしまうまで、ずっと変わらずにそこにいた。
それは、篠山紀信がカルメン・マキを1960年代の終わりに撮影したヌード写真で、今でもネットの画像検索をすると真っ先に出てくる有名なものである。
ウェーブのかかったロングヘアのカルメン・マキが、濃いアイシャドウの大きな瞳で、じっとこちらを見ていて、右手は軽く陰部を隠し、左手は左胸を大きく掴み上げている。
最初はドキドキした思いで貼り付けたものだが、時間が経つに連れ、それがなければ自分の部屋ではないような、大切な調度品のような存在になった。とにかくいつでも何をしている時でも、彼女はこちらを見ているのである。だから、安心して無茶苦茶なことをしていたのかもわからない。
さて、昭和43年、女子高を2年生で中退し、さてこれからどうしようと思っていたマルメン・マキに、友人が寺山修司主宰の天井桟敷の舞台『青ひげ』の観劇を誘い、一緒に観ることになった。その舞台に感銘を受けたマキは、すぐに入団を決意し、それが許された。
確かに寺山にとっても幸運なことだったと思う。自分の芝居のイメージに適う少女が、方々を探さなくても、自ら志願してきたのだから。マキは入団の年の8月には『ハイティーン詩集 書を捨てよ町に出よう』で初舞台を踏むことになった。
そして、その舞台をレコード会社の関係者が観ていて、不思議な存在感を持つ彼女に歌を歌わないかと持ちかける。マキは初舞台からわずか半年後の昭和44年2月に『時には母のない子のように』で歌手デビューを果たすことになった。
「時には母のない子のように」 寺山修司:作詞 田中未知:作曲 山屋清:編曲 カルメン・マキ:歌
時には 母のないこのように
だまって 海を見つめていたい
時には 母のない子のように
ひとりで 旅に出てみたい
だけど 心は すぐ変わる
母のない子になったなら
だれにも愛を 話せない
時には 母のない子のように
長い 手紙を書いてみたい
時には 母のない子のように
大きな 声で叫んでみたい
だけど 心は すぐ変わる
母のない子になったなら
だれにも愛を 話せない
作曲の田中未知は、天井桟敷の旗揚げ前からのメンバーで、寺山が作詞したものに曲をつけ、ギターで歌ったりしていた。『時には母のない子のように』もその一つで、マキのために書き下ろされた曲ではない。その他は寺山とともに『山羊にひかれて』『だいせんじがけだらなよさ』をマキに、『人の人生かくれんぼ』を日吉ミミに提供している。
その当時の寺山の妻は九条映子だったが、昭和44年に二人が別れたのちは、田中未知はずっと寺山のパートナーとして、彼を支え続けた。そして、寺山の死後37年が経過した今でも、寺山の世界を紹介し続けている。
私は昭和53年、赤坂の書店でアルバイトをしていた時に、二人の姿を見たことがある(不思議と寺山は、その前に私がアルバイトをしている喫茶店でも何回か目にしていて、彼も私の存在をうっすらと覚えているようだった)。
二人は書店の通路に、コンビニの前にたむろをしている中学生のような格好でしゃがみこんで本を選んでいた。「お客さん、他の方々が通りにくいですから、立っていただけませんか?」と私が話しかけると、立ち上がりながらこちらを見て、寺山が、「おお、あんたか」という顔をした。
私は、少し勢いづいて、「寺山さん、『四角いジャングル』の文庫本、いつ再版されるんですか?」と訊いてみた。当時、その本が読みたかったが、なかなか出てこなかったのである。
「ああ、もうすぐね、もうすぐ出ると思うよ…」と寺山は口籠るように言って、二人はその場を去っていった。田中未知はそのやり取りの間中、静かに微笑みながら一言も話をしなかった。その姿が、たいへんに印象的だった。因みに『四角いジャングル』は、その後も再版されていない。
さて、昭和44年の第20回NHK紅白歌合戦に『時には母のないこのように』で初出場をしたカルメン・マキの姿はよく覚えている。紅組司会の伊東ゆかりの明るい紹介の言葉とは対照的に、足早にマイクに向かい、ぎこちなく一礼して、表情を全く変えずに歌って、一礼して帰って行った。
当時、Gパン姿で出場しただけで何かと取りざたされて、愛想も何もないではないかと批判を受けていた。今You Tubeという便利なもので確認してみると、おそらくかなり緊張していたのではないかという気がする。表情さえ作れないほどに…。
そして、また実に良い歌唱だとも思った。本当の声で歌っている。
彼女は今でも歌い続けている。時々、自由が丘のライヴハウスにも顔を出しているらしい。今度、ぜひ聴きに行ってみようと思う。
-…つづく
第403回:流行り歌に寄せて No.203 「長崎は今日も雨だった」~昭和44年(1969年)
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