ジャック・カロを知っていますか?
カロは、1592年、現在はフランスの一つの地域になっている、かつてのロレーヌ公国のナンシーに生まれ1635年に亡くなった版画家です。
わずか43年という短い生涯のうちに、1,400点もの作品を制作し、銅版画のあらゆる技法と可能性をいち早く展開して版画家という職業を確立し、ピラネージやゴヤをはじめ、多くの画家たちに大きな影響を与えました。
カロの表現対象は多岐にわたっていて広く、あらゆるジャンルを描きましたので、視覚表現史を考えるうえでも、またその時代の街や人々や祭りや景色や心模様なども垣間見られて、実に興味深く重要な存在です。
本書では、そんなカロの主要作品を制作年度順に紹介しながら、作品について、またそれを見て私の心に想い浮かんだことなどを、気ままに綴ってみることにします。

Jacques Callot(ジャック・カロ)の肖像《1626年頃》
ジャック・カロの家柄
ジャック・カロは、ロレーヌ公国の家柄の良い裕福な家に8人兄弟の次男として生まれました。父親のジャンは、ロレーヌ公国の大公の布告の書類を作成したり、宮廷での儀式の式次第を取り仕切ったり、馬上試合などの行事を記録に残したり、紋章を作成したりする、いわば王のお抱えの、デザイナー的な働きもする秘書官のような役割を持つ人でした。
同じ時代を生き、若くして国王フェリッペ4世に気に入られて首席宮廷画家になったスペインの天才画家ベラスケス(1599-1660年)も、王に頼まれた絵と、自分が描きたいと思った絵を描く以外に、王宮のインテリアや、重要な祝典などの総合デザイナー兼、総合ディレクターのような仕事をしていました。
ロレーヌ公国とスペイン帝国では、もちろん国の大きさも領土も規模が全く違います。大帝国のスペインの王ともなれば当然、王宮のしつらえであれ、式典の式次第や豪華さであれなんであれ、それにふさわしい意匠を凝らす必要があったでしょう。
しかし当時、ヨーロッパには無数の都市国家があって、大きくても小さくても一つの国としての独自の文化やプライドを持っていました。またそれぞれ自らの独立性を保つために、あるいは勢力を拡大させたりするために、隣国をはじめ、さまざまな国との外交が、国にとっては極めて重要でした。ですから、古い歴史を持つロレーヌ公国の大公ともなれば、一国一城の主としての体面を保つべく、色々と思いを巡らし、またさまざまな工夫をする必要があったでしょう。
父親のジャンは、そんな大公の側に居て紋章をデザインしたり、大公の思いを反映させた文章を書いたり、貴族にとってはなくてはならない馬上試合の演出なども行ない、さらにはその模様を記録した書類なども作らなくてはなりませんでしたから、さぞかし忙しかったことでしょう。ちなみに、カロは8人兄弟の次男ですけれども、父親のジャンは長男に自分の仕事を引き継がせるべく紋章官候補という役回りを与えています。
また、祖父のクロードは、なかなか才覚のある人物だったようで、『三人の王様』というホテルを開業して大当たりさせています。道の街という名前を持つアルザスの、ライン河沿いにあるストラスブールと同じように、ロレーヌは東西南北交通の一つの要所でしたから、なかなかに目の付け所が良かったのでしょう。しかも大成功したその旅館を売って、公爵である大公の側で大公を守る近衛隊の射手になっていますから、それなりの出世願望や世渡り上手の資質も持ち合わせていたのでしょう。
祖父は引退するにあたって近衛隊の射手の地位をカロの父親のジャンに継がせてもいますけれども、もちろんそんな祖父がいなければ、カロの父親が紋章官になることもなかったでしょう。しかもカロ家は、カロが8歳の時に大公から貴族の称号を与えられています。ちなみに貴族の地位というのは血筋によって受け継がれるものばかりではなく、財を成したものが、それなりの金額のお金を工面して侯爵などから買い受けるという方法があります。カロ家の場合は後者です。
ところで、そんなカロの父親のジャンの仕事を何十倍も大きくしたような、スペイン帝国の王直属の首席宮廷画家兼、宮廷の総合空間デザイナーでもあったベラスケスとジャンの息子のジャック・カロ、同じ時代を遠く離れた場所で生きた二人は、不思議なことにやがて同じテーマの絵を、『ブレダの開城』という当時の歴史的大事件を後世に伝えるための大作を依頼され、かたや油絵によって、かたや銅版画によってそれを表現することになりますけれども、もちろんそれはまだずっとずっと先の話。
ともあれ、そんな家の子として生まれたカロであってみれば、幼い頃から銅版画は身近なものだったでしょう。紋章であれ王の告示書であれ記録であれ、当時は銅板を彫り、それを用いて紙に刷る銅版画の技法によってつくられていたからです。
-…つづく