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■ジャック・カロを知っていますか? ~バロックの時代に銅版画のあらゆる可能性を展開した天才版画家とその作品を巡る随想



更新日2021/06/10 

 

 

第5回:最初の公的な仕事



最初の公的な仕事い

カロはフィレンツェで、ジウリオ・パリジからクリエイティヴな刺激を受けながら、また、未だ独り立ちするほどではなかったために実家から仕送りを受けつつ絵画の模写をしたり、それを版刻する技術を磨いていたようです。ただ残された作品を見る限り、自分が興味を持てるものとそうでないものとで、傾ける熱意の度合いがはっきり違うように感じられます。

それというのも、カロがフィレンツェにやってくる元々の理由であったスペイン王妃の追悼葬儀に関してつくられた、彼女の生涯を描いた版画集にはカロらしさが全くないからです。この仕事には、カロだけでは心もとなかったからなのか、もう一人別の版画家が起用されていますから、共同作業ということ自体がカロの性分に合わなかったのかもしれません。

もしかしたら、祝祭好きで奇抜なデザインや仕掛けが得意だったパリジ自身が、亡くなったスペイン王妃の記録版画集というものにそれほど重きを置いていなかったということなのかもしれません。

ともあれカロは1614年、おそらくはパリジの推挙があったからでしょうが、22歳の若さで、トスカーナ大公コジモ2世から宮廷芸術家に任命されます。ちゃんと仕事をするために部屋まで与えられています。そして1615年に公的な仕事『フェルディナンド1世伝』の版画の制作を任されました。フェルディナンド1世(在位1587~1609)は、コジモ2世(在位1609~1621)の父親で、ルネサンスの大パトロンとしてフィレンツェとトスカーナの文化的黄金時代を支えた栄光あるメディチ家の文化的家風を受け継いで最後の大花火を打ちあげた人物でした。

ちなみにメディチ家について簡単に触れれば、もともと貴族ではなく両替屋として成功して財を成した一家で、15世紀にローマ教皇の財産を管理するようになってから、今日の銀行のような金融業で急成長して政治的な力も保持し始め、コジモ・デ・メディチの時代に政治権力と財力の両方を掌握してフィレンツェ共和国の統治者となり、そこからルネサンスの大パトロンとしてのメディチ家の栄光の時代を迎えることになります。

ジョバンニからコジモ、コジモからピエロ・デ・メディチに、そしてロレンツォへと受け継がれる中で、ドナテッロ、ボッティチェリ、レオナルド、ヴァザーリ、ミケランジェロなどの歴史的天才たちが活躍しました。

しかしロレンツォの気前の良さが災いしたのかメディチ家の財政は傾き、しかも彼の死を継いだ長男のピエロはフランス王シャルル8世のイタリア侵攻の際にフランスに立ち向かわずにトスカーナへの侵入を許してしまったので、フィレンツェ市民の反感を買って逃亡を余儀なくされ、メディチ家は破産してしまいます。

そのピエロの死後メディチ家を継いだロレンツォの次男のジョバンニ・デ・メディチはスペイン帝国の力を借りてフィレンツェに帰還しました。もともと枢機卿でもあったジョバンニは、教皇レオ10世としてフィレンツェとローマの治世者として君臨してメディチ家を再興し芸術を擁護しましたが、やはり浪費がたたって財政は再び傾き、ジョバンニの死後、従兄弟のジュリオ枢機卿が後を継いでクレメンス7世としてフィレンツェとローマを治めるも、折しも巻き起こった宗教改革の嵐の中で、ローマ教皇のカトリック派とルター率いるプロテスタント派とが勢力争いを繰り広げる当時の流動的な情勢の中で情勢を見誤ってフランスと手を組んだため、当時圧倒的な権勢を誇っていた、スペイン国王カルロス1世兼神聖ローマ帝国皇帝カール5世が君臨するスペイン帝国の怒りをかい、ローマもフィレンツェも圧倒的な軍勢によって蹴散らされ、メディチ家はまたもやローマとフィレンツェから追放されることになります。

しかしその後1530年、クレメンス7世がカルロス1世に詫びを入れて和睦が成立し、メディチ家が三度フィレンツェとトスカーナを治めることを許されることとなります。そして大公の座はクレメンス7世からアレッサンドロ、コジモ1世、フランチェスコ1世、フェルディナンド1世、そしてコジモ2世へと受け継がれました。

カロがフィレンツェに来たのは、そんなコジモ2世が大公になって3年目のことでした。そしてカロが請け負った最初の公的な仕事というのが、コジモ2世の父であり、フィレンツェとトスカーナに、メディチ家最後の華を咲かせたフェルディナンド1世の生涯と功績を称える19点の銅版画が収めた版画集でした。そこから5点の版画を紹介します。

 

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これは『フェルディナンド1世の生涯』と題された書物の冒頭に収められた版画で、トスカーナ大公フェルディナンド1世が1589年、枢機卿の前で誓いを述べた後、大公妃となるフランス王アンリ2世の孫娘のクリスティーヌ・ド・ロレーヌに指輪をはめようとしている場面です。

家柄を重視した当時は婚姻は重要な外交政策でした。隙あらば勢力拡大を狙う国々との武力衝突を回避するには親戚関係になるのがもっともわかりやすい方法であり、和平条約、あるいは同盟関係を結ぶのと同じような意味がありました。

ちなみにフェルディナンド1世・デ・メディチは、大公になる前は枢機卿だった人物で、兄のフランチェスコ1世の急死を受けて、1587年に大公になりましたが、その際に枢機卿の地位を辞しています。メディチ家の力をバックにしていたとはいえ、わずか15歳の若さで枢機卿になったくらいですから頭脳明晰だったのでしょう。このように大公の座についてすぐにフランス王の孫娘との政略結婚をしたのち、公国の立て直しに着手し、トスカーナを富ますべく農地を整備したり産業を育成したり、トスカーナの港町リヴォルノを自由貿易港として貿易を推進、さらには果敢に多方面での外交に手腕を発揮してフィレンツェとトスカーナを復興させ、メディチ家の良き伝統を受け継ぎ、街の美化や文化芸術の育成に努めました。

この『フェルディナンド1世の生涯』の仕事は、当時大公の地位にあったコジモ2世の命によるものですから、大公や大公妃の衣装を見てもわかるように、カロはかなり丁寧に版刻しています。大公夫妻と枢機卿以外の人々の多くが今日の写真のようにこちらを見つめているあたりも面白く、まるで婚姻をしかと見届けた証人たちのようです。

ちなみに写真が登場するのはカロの時代から200年もあとのことですから、このような版画が残っていなければ、私たちは当時の人々の服装などを知ることができません。

それにしても人間が言葉や絵という表現伝達メディアを手に入れたことは奇跡的なことです。私たちの文化やそれを創り出す元となる様々なメディアは、自分の思いや見たことや体験したことを人に伝えたい、それらをできるだけ多くの人々と共有したい。そのことを記録して後世に残したい、あるいは過去に何があったかを、どんな人がどんなことを考えたり見たりしたかを知りたい、といった人間的な願いから生まれました。そしてそんな願いが文化を生み、人に人間性をもたらす大きな原資の働きをしてきました。

 

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これは、フィレンツェの街の美化に貢献した建築好きの大公の肝いりプロジェクトであるリボルノ港の工事の様子を視察している場面です。日傘の下で大公がエンジニアから説明を受けています。どうやら古くからある港を拡張してリボルノを自由貿易港にふさわしい城塞都市にしようとしているようです。石工たちが石を刻み、多くの人たちが石を運んでいます。ヨーロッパの街は基本的に城壁に囲まれていますけれども、リボルノは運河と城壁に囲まれたルネサンスの時代の面影を今なおとどめる街で、その景観の一部は、こうしてフェルディナンド1世によって創られたのでしょう。

画面の右側に椅子に体を預けた大公をはじめとする人々を近景として大きく描き、左側に遠景を置き、それらを斜めの方向性を強調した描写を用いて動的でありながら安定感のある画面を創り出しているあたりにカロ独特の表現力が表れています。後世からバロックと呼ばれることになる、カロと同じような時代を生きた画家カラヴァッジオ(1571~1610)の作品に顕著に見られるように、この頃の表現者たちは、ルネサンスの作家たちが、正確な遠近法を駆使したり、レオナルドのように空気遠近法と呼ばれる繊細な陰影や明暗を用いてより自然な空間表現を求めたのに比べると、たとえば画面の前方の何かを強調してこちらに向かって突き出させ、それによって観る者を場面の当事者にしてしまような、極端な奥行き感を持たせた作為的な、もしくは劇的な画面構成をし始めるようになります。このカロの画にも、そのような時代の最先端の風のようなものが感じられます。つまりこの頃、表現者たちはあるがままの現実の向こうに、人間だからこそ認識しうる、観客を巻き込んだもう一つの現実、幻想や想像力がもたらすリアリティまでも表現し始めました。カロよりほんの少し前の同じような時代を生きたセルバンテス(1547~1616)も、騎士などいない時代に自分が遍歴の騎士であるという幻想に取り憑かれて大騒動を繰り広げる物語を書いていますし、セルバンテスと同じ年に亡くなったシェークスピア(1564~1616)も人間にとっての幻想の働きの強さを巡って多くの戯曲を書きました。そして、やがてベラスケスが『ラス・メニーナス』(1656年)において、現実の向こうに人間とその想像力の不思議な豊かさを踏まえて、そのようなバロック的な方法の極地を描きました。

 

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この版画は傭兵を雇い入れている場面を描いたものです。この時代のイタリアではカトリックの総本山としてのローマ教皇が宗教的な権威を持ってはいても、軍事的には基本的にフランスとスペインの勢力下にあって、両国とまともに渡り合えるような軍事力はなく、フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマ、ミラノ、ナポリなどの都市国家は綱渡りのような生き残り戦略を展開していました。しかも東方のオスマントルコ帝国の圧力は増す一方で、1571年のレパントの海戦で、スペイン艦隊にヴェネツィアとローマを加えた連合艦隊がトルコに勝利するまでは、ヨーロッパは押されっぱなしでした。

当時ヨーロッパで圧倒的な力を持っていたのはスペイン帝国でした。新大陸から流れ込む富を湯水のように使い、ポルトガルを併合し、ローマ法王を押し立てて覇権を広げ、スペイン王カルロス1世が神聖ローマ帝国皇帝カール5世を兼務して黄金時代を築いた頃は、太陽が沈まぬ国とまで言われたスペイン帝国でしたけれども、構造的な社会変化を背景とした宗教改革という名のプロテスタント新興勢力との広域での戦い、とりわけフランドルの独立運動の鎮圧にエネルギーを削がれ、世界を支配した無敵艦隊が1588年にイギリス海軍に敗れたのを境に次第に凋落し始めます。そしてカロが4歳の時には、イギリスとフランスとオランダが対スペイン三国同盟を組むなど、流石のスペインの覇権にも陰りが見え始めていました。

そんな中で都市国家の集まりのようなイタリアは、それぞれの国がそれぞれの道を探るしかなく、しかも貿易も、地中海交易から大西洋やインド洋などの大洋交易へと重心が移り始めていて、ヴェネツィアもすでに過去の栄光を失っていました。フィレンツェも大国の顔色を伺いながら商業に精を出すことに重きを置いていて、フェルディナンド1世はまさにそんな中で独自の生きる道を切り開こうとした大公でした。

そういう状況の中では自前の正規軍を強化することは得策ではありません。そんなことをすれば大国に睨まれますし、軍隊を常に維持するには出費もかさみます。ですからイタリアでは、あたりがきな臭くなってきた時に臨時に傭兵を雇うのが一番で、また仕事を求めて各地を渡り歩く志願兵も当時は沢山いました。この版画はそんな傭兵をお金を払って雇っているところです。受付をしてもらっている人は身なりがちゃんとしていますから、おそらく、にわかづくりの傭兵たちをまとめて指揮する傭兵隊長なのでしょう。

 

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この版画は、トルコ軍の騎兵隊にフェルディナンド1世が送り出したフィレンツェ軍とマルタ騎士団の連合軍が打ち勝った戦いを描いたものです。倒されたトルコ軍の騎馬が横たわっていますし、突入してきた騎兵もどうやら倒される直前のようです。画面の左上に翻っているのがマルタ騎士団の戦旗、その下の方の、よりトルコ軍に迫っている位置にある五つの丸を配した旗がメディチ家の軍の存在を示しています。カロらしく非常に動的な構図です。

勇敢なことで知られるマルタ騎士団の歴史は古く、12世紀の第1回十字軍の際にエルサレムで聖ヨハネ騎士団として結成されました。元々は現在の国境なき医師団的な軍団で、巡礼者の保護や十字軍で負傷した人々の手当などをしていました。エルサレムがオスマントルコに占領されてからはロドス島に移り、ロドス島もトルコ軍に攻め落とされてからはマルタ島に本拠地を置いたので、マルタ騎士団と呼ばれるようになりましたが、実は現在もなお、ローマに本部を置いて、国土を持たないけれども歴史ある準国家として存在し続けています。

 

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これはガレー船による海戦を描いた版画です。ガレー船はギリシャ時代から存在し、船倉から何本もの長い櫂が突き出ていて、それを船倉にいる人が漕いで進む船です。帆を張ったりできるようにもなっていますが、基本的には接近戦に用いられる軍艦です。スペインの無敵艦隊が保有していたのもこのようなガレー船でした。

版画は5隻のマルタ騎士団の旗を掲げたガレー船が一団となってトルコ船団に突進し、トルコ船団が帆を上げて敗走している場面を描いたものです。この頃のガレー船には大砲を搭載しているものもありましたが、ガレー船の武器は何と言っても衝角と呼ばれる鋭い槍のような船首です。これを相手の船の側面である絃に向けて突進して穴を開けて船を沈めたり、衝角を伝って相手の船に乱入して白兵戦を挑むというのが基本的な戦い方でした。

櫂の漕ぎ手は奴隷だったり、そのために雇われた漕ぎ手だったりしましたが、かのセルバンテスも、仕事を求めてナポリでスペイン海軍に入隊してレパントの海戦に参加しています。あわよくば戦果を挙げて正規軍への昇進を目論んでいたのでしょうが、セルバンテスは残念なことにこの戦いで被弾し、左腕の自由を失いました。それでもアフリカでの戦いにも参加して、その帰りに不運にもモーロ人の捕虜となり、何度も脱走を企てたりしながら5年間も捕虜生活を送り、帰国してからもレパントの海戦での名誉の負傷を材料に軍での役職を得ることを画策しました。しかしそれも叶わず、かろうじて公務員としては末端の徴税吏の仕事を得ましたけれども、これも不運が重なって罪に問われ投獄されてしまいます。散々な人生ですが、しかしそうして閉じ込められた牢獄で、かの『ドン・キホーテ』の着想を得たのですから、人間の人生を運ぶ運命の輪というのは、どこでどう転がるかわからないものです。ちなみに『ドン・キホーテ』が出版されたのはカロが12歳だった1605年で、この版画を彫る10年前でした。


-…つづく


 

 

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谷口 江里也
(たにぐち・えりや)
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本や歌や建築、さらには自治体や企業のシンボリックプロジェクトなどの、広い意味での空間創造を仕事とする表現哲学詩人、ヴィジョンアーキテクト。
主な著作に『鏡の向こうのつづれ織り』『鳥たちの夜』『空間構想事始』『天才たちのスペイン』、主な建築作品に『東京銀座資生堂ビル』『ラゾーナ川崎プラザ』『レストランikra』などがある。
なお音楽作品として、シンガーソングライター音羽信の作品として、アルバム『わすれがたみ』『OTOWA SHIN 2』などがある。

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バックナンバー
第1回:ジャック・カロを知っていますか?
第2回:カロの最初の版画
第3回:ローマでのカロ
第4回:フィレンツェでの幸運な出会い


■更新予定日:隔週木曜日