第1回:日本脱出……南無八幡大菩薩
更新日2002/02/18
「アメリカに渡って一旗挙げる」──こんな夢物語は、自分の親に打ち明けても始まらない。「ちょっと行って来る」とリュック1つで飛び出したのは、周りの人々へ多少の気配りした結果だった。
アメリカに渡る第一の目的は、ロサンジェルスからニューヨークまでのオートバイによる横断。だが、内心では密かに仕事を探してアメリカに永住しようと腹を決めていた。
計画というには、あまりに大雑把。所詮、自分自身にとっても雲をつかむような話であった。計画が失敗して途中帰国の可能性も充分ある。
しかし、やるのは今しかない。
'90年、バブル崩壊直後にあたるその春、私は自衛隊を除隊して、わずかとはいえ手にした退職金を持って日本を飛び出した。リュックの背中のポケットには、書道の先生に書いてもらった「南無八幡大菩薩」の色紙を入れた。信仰や宗教的な意味は特になかったが、「片道燃料で出発するから後が無いぞ」という自分への戒めのつもりだったのだ。
一回も海外旅行の経験がなく、英語も話せない、コネもない、特技もないというないないづくしの私だったが、それでも、なぜか自信にだけは満ち溢れていた。この身体中にたぎり立つようなエネルギーは、一体何だろう? 誰にもこんな時期があるとは思うのだが。
空港に着いていざ搭乗となると、国際線はおろか、飛行機に乗るのがまったく初めての私の胸は、いやがおうにも高鳴りまくった。だが飛行機は、いつものことのように淡々と離陸する。窓から外を見ると、初めて上空から見る日本はやたらと緑が多い。ふと、「しばらく帰ってくることはできないのだ」という思いがよぎる。やがて列島の島影が見えなくなり、機体は雲の上に出る。さらばJAPAN、お袋、そして片思いのあの娘!
しばらくすると、フライト・アテンダントが新聞を配りにきた。隣に座っているビジネスマン風の日本人は、日本語の新聞を取らず「ウオールストリートジャーナル」を手に取った。これを見て、こともあろうに自分もつられて同じ新聞を受け取ってしまった。これからの長い飛行時間をやり過ごす方法など思いも寄らなかった私は、読めもしない「ウオールストリートジャーナル」に足を組みながら頷きつつ、英文のページを丁寧にめくっていた。
究極に退屈な9時間を過ごすハメになってしまった。この飛行機に何度も乗っているであろう隣のビジネスマンに対するつまらぬコンプレックスを、我ながら恨めしく思う。気を取り直し、機内サービスのワインを3本明けて緊張の緩んだ私は、ロサンジェルスまで爆睡したのだった。
ロサンジェルス空港に着陸した飛行機の窓から最初に見えたのは、黒人の作業員たちだった。これが「外国」だ! これから頼りになるのは、自分自身のみ。最大の山場である空港のイミグレーションを通過するとき、職員の米国人に大きい声で「カンコーッ」と日本語で叫んだ。本当は、「永住―っ」と言いたかったが、ここでは控えた。間髪入れず「オーケー」と言いつつ、職員は90日滞在のスタンプを旅券に豪快に押してくれた。
いよいよ憧れの国アメリカに上陸。冒険は、始まったのだ。
乗合タクシーの列に並ぶが、どこに行くのか、当面の行く先さえ決めていない自分に気付いて呆れる。いざ運転手に行き先を聞かれると、「ハリウッド!」と思わず口にしてしまった。期待と緊張で汗に濡れた背中に不快感を覚えながら、広大なロスの空港を出た。
当時のアメリカは、車・電気製品などの国産品を最悪な仕上げで供給していた時期だったようで、フリーウエイを走る、故障の少ないホンダの車がやたら目に付いた。また70年代のセリカ、シビック、ダットサンなど恐ろしいくらい古い車が、平気で高速を走り抜けて行く。
街中の最初の印象は、灰色だった。ダウン・タウンにいる浮浪者の数は半端でなく多い。超大国アメリカの現在までの経済繁栄は、海外では戦争が、国内では外国からの低賃金労働者が支えていると聞いていた。そんな底辺を支えるブロックの人柱にされるのは、私としては遠慮したいものだ、と心から思った。
第2回:夢を紡ぎ出すマシーン
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