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■インディアンの唄が聴こえる
 

第2回:意外に古いインディアンのアメリカ大陸移住

更新日2023/01/19

 

私はここでインディアンの悲しい歴史を語ろうとしているのではない。私にそんな膨大な資料が要求される研究をこなせる能力はない。しかも、残された史料は白人が書いたものだけで、報告、論文はすべて英語で書かれており、インディアンの言語で表記されたものはない。そんな文化人類学者の研究に一体何の価値があるのだと言いたくなるほど、インディアンの原音表記した論文すら少ない。すべて英語なのだ。英文を読み、その行間を当時のインディアンたちの目と心理で思い測ることなど、私には不可能に近い。アメリカインディアンたちは、文字を持たず、自らの歴史を書き残さなかった。古老が語る伝承を白人の文化人類学者らが書き取ったものはあるが…。 

ただ、私がここアメリカの中西部に居を構えて四半世紀にもなり、その間、山登り、ハイキングのついでに随分たくさんインディアンの遺跡、博物館、インディアン居留地、歴史的大事件があった場所、戦場ということになるが、を訪れてきた。私たちは、インディアンの残照の元で暮らしているのだ。

アメリカの黒人、インディアンの悲惨な過去は現在まで引き継がれており、いわば現在進行形の悲劇だ。アメリカ人の意識の中に、厳然と生きている白人至上主義、独善的なキリスト教唯信主義の匂いを嗅ぐとき、もし私自身が虐殺される側にいたのなら、インディアンか黒人奴隷だったらどういう反応、行動を起こしただろうかと、思い巡らせないわけにいかない。それは決してあり得ない想像ではなく、実際、アメリカがアメリカ国籍を持つ日系人を強制収容所に詰め込んだのはホンの80年前のことなのだ。そして、また“正当な?”理由さえあれば、アメリカは平然と大量殺戮、強制収容を敢行するだろう。 

第二次世界大戦の期間中、どうしてドイツ系、イタリア系のアメリカ人を強制収容せずに、日系人だけを対象にしたのか、日系人の強制収容所から大勢の勇敢な義勇軍(第442連隊)を組織し、イタリア、南フランスでナチスドイツ軍と戦ったにも拘わらず、その兵士たちの両親、家族を収容所に強制連行したのか。

この日系人の有名な第442連隊の話は、ドウズ昌代の優れたドキュメンタリー『ブリエアの解放者たち』(文春文庫)に詳しい。

北米、中南米のインディアンがベーリング海を渡り、アラスカを経て南下して行ったのは存外古く、今では2万5,000年くらい前だというのが通説になっている。1930年代頃まで、考古学者たちはアメリカに人類が住み始めたのは、せいぜい3,000年前だと考えていたようだ。これを覆したのはニューメキシコ州、フォルサムで発掘された槍鏃、石器ナイフが1万年以上前のものだと査定され、加えてメキシコのトラバコヤの遺跡は2万2,000~3,000年前と鑑定され、アメリカ西部開拓時代から信じられていた通説よりも、はるか以前からインディアンが南北アメリカ大陸に棲みついていたことが判明した。

どれくらいの部族、民族が南北アメリカ大陸にやってきたのか、諸説あるが、言語(方言ではなく)は大別しただけで、北米には200、メキシコを含む中米に350、南米には1,450の全く違った言語があったことが分かっている。北米のインディアンに限っても、狩猟インディアン、スー族、コマンチ族と平原農耕インディアンであったミズーリー族、カンサス族、シャイアン族とは全く会話が成り立たない、違う言語体系だ。

言語学者は大別してアラスカのエスキモー・アレウト大語族、ナディネ大語族、アルゴンキク・ウヲキャッシ大語族、ホカン・スー大語族、アズテック・タノア大語族、べヌート大語族に大別しているが、まだ不明な部分が多い。おまけに、毎日のようにその言葉で話ができる古老が亡くなり、同時に消滅していく言語も多い。文字を持たない言語の宿命なのだろう。

No.2-01
私たちが抱くインディアンのイメージ。
このように裸馬に跨り、頭に羽飾りの付いた帽子というのだろうか、冠を被っている。
実際にこのような羽根飾りのついた冠を戦闘時に被る部族は存在しなかったと言われている。
これはバッファロー・ビルが『大西部ショー』(Buffalo Bill’s Wild West)を興行した時に
作り上げたイメージだ。だが、これが受けたのだ。そして、ハリウッドの西部劇に引き継がれていく。


北米インディアンが馬を飼い、本格的に使い始めたのは、1750年頃からだと言われている。西部劇に、勇猛なインディアンの襲撃に欠かせない馬は、存外新しい“外来種”なのだ。スペイン人のコンキスタドール*1 たちが中南米に馬を持ち込み、それが急速に広がった。と言っても、馬は種付けから出産まで20ヵ月もかかるから、繁殖力は強くない。しかし、馬を持つことで行動範囲が狩猟の領域が格段と広がり、また戦闘能力が一段と増したことは疑いを入れない。一頭の馬を丁寧に育て、調教するだけの価値があった。  

平原のインディアンたちが好んで飼ったのはポニーと呼ばれる比較的小型の馬で、粗食に耐え、長距離の行程に耐え、寒さ、暑さにも強かった。騎兵隊や斥候、パイオニアたちが大切に飼っていたのはクォーターホースと呼ばれ、その名の通り4分の1マイル(クォーター)を走らせると、瞬発力があり、ポニーよりはるかに速かったが、ポニーより繊細、神経質で、餌になる牧草、エンバクを持ち歩き食べさせなければならなかった。

同時に戦闘方式も変わり、狩猟インディアンが、農耕インディアンを襲うことが頻発になり始めたことだろう。
馬牧場やコラール(corral;さく囲い)から逃げた馬が野生化し、群れをなして荒地、岩山を駆け巡り現存している。私たちが住んでいる町の東、ほんの10マイルほどにあるインターセクションにある村とも呼べない地点、カメオ(Cameo)でI-70を降り、メイン峡谷のジャリ、土の狭い道を分け入ると、谷の東側、パインリッジに野生化した馬が生息しているのを観ることができる。

野生化した馬は、競馬馬とは全く違う種類の動物に見える。たてがみ、尻尾も長く毛の量も多い。第一、西部劇や競馬に出てくる馬に比べ、馬体自体に艶がなく、獣の毛に近い。急斜面で雑草を食べたりしている。何かの拍子に突然群れをなして岩だらけの斜面を走り出す。砂塵を舞上げ、一群となって暴走する爆発的なエネルギーは、原始の野生を思わせ、双眼鏡で見ていて退屈させないショーだ。

 

 

*1:コンキスタドール【Conquistador】=スペイン語で「征服者」を意味するが、とくに15世紀から17世紀にかけてのスペインのアメリカ大陸征服者、侵略者を指す。

 

 

第3回:インディアンの社会 その1

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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