第1回:Chungking express (前編)
更新日2005/11/17
もうこの男の顔を見続けて3日目になる。地下にあるこの部屋の端っこで、ただ黙々と牛丼のどんぶりを前に朝食を頬張り続ける白人男性。もちろんその男が誰かは知らないし、向こうもこちらのことは何も知らない。ただ確かなのは、ここ吉野家の朝食メニューにある牛丼とティバック式日本茶のセットは、他のローカルショップと比べても安くてボリュームがあるということだけだ。
まず根を上げたのはアメリカ出身の妻エリカだ。日本人の私には少し鼻につく中国式の香料を気にしなければ、おいしいご馳走にわずかUS3ドルから4ドルでありつけるのだから何も文句をいうことはない。ただアメリカ人には、こう毎日毎日中華ばかりだと参ってしまうものらしい。特に油の質の違いみたいなものが、どうしても喉の奥にひっかかりはじめるらしく、せめて朝くらいは遠慮したいのだという。
おそらく端に陣取っている彼も同じような理由なのかもしれないし、もしくは最近急激に増えてきている英会話教室の教師として日本で暮らしている一人なのかもしれない。そうだとすればそれほど油濃くない日本食の方が、中華よりも朝食として受け付けやすいのかもしれないという予測はつく。
簡単な朝食を済ませ階段を上って地上へ出る。ビルの谷間から差し込む鋭い日差しと、亜熱帯特有のねっとりとまとわりつくような粘り気のある空気が、今日も暑い一日になることを思い出させる。
それにしてもこのネイサンは目覚めが遅い。夕方から深夜にかけて人の動きが活発になるのは、おそらくこのどんよりとした暑さを避けるためなのだろう。その一方、フェリーで7、8分の対岸にある香港島側は、近代的な冷房の利いたオフィスビルが立ち並んでおり、その区域へ行けば朝早くから忙しく行き来する人々を見ることができる。
すべてがこの調子で香港という街は、何もかもがごっちゃになって雑居しており、これがいうイメージの固定が非常に難しい。もちろんそんなことはする必要はないのかもしれないが、とにかく捕らえ所が全くない街だ。

そんな香港でどうしても泊まってみたい場所があった。それが重慶大廈、通称「チョンキン・マンション」と呼ばれる、これまた捕らえ所の全くない香港に相応しいビルだ。
このビルはウォン・カーウァイ監督の『チョンキン・エクスプレス』(邦題:恋する惑星)で、世界にその名を知られることになったが、世界中を旅するバックパッカーの間では、宿代の急騰するここ香港にあって、未だに格安のベッドが確保できるところとして、かなり以前から半ば伝説的に語り継がれてきた。
映画の方は中性的なカラーと広角を多用したふわふわとしたアングルの絵が、軽快でテンポよい音楽と共にストーリーに絡んでいくというものだ。そんな映画の舞台でもあるバックパッカー伝説のビル、こうくれば一度は自分の身で体験してみなければというわけだ。
第2回:Chungking
express (後編)

