■くらり、スペイン~移住を選んだ12人のアミーガたち、の巻

湯川カナ
(ゆかわ・かな)


1973年、長崎生まれ。受験戦争→学生起業→Yahoo! JAPAN第一号サーファーと、お調子者系ベビーブーマー人生まっしぐら。のはずが、ITバブル長者のチャンスもフイにして、「太陽が呼んでいた」とウソぶきながらスペインへ移住。昼からワイン飲んでシエスタする、スロウな生活実践中。ほぼ日刊イトイ新聞の連載もよろしく!
著書『カナ式ラテン生活』。


第1回: はじめまして。
第2回: 愛の人。(前編)
第3回: 愛の人。(後編)

■更新予定日:毎週木曜日

第4回: 自らを助くるもの(前編)

更新日2002/05/16 

アミーガ・データ
HN: KAORI
1973年、埼玉生まれ。
1992年よりスペイン生活、現在11年目。
マドリード在住。

「運が良かっただけ」 インタビューの間、何度も彼女の口から出てきた言葉だ。インチキインタビュアーの悪いクセで、ドラマチックなお涙頂戴物語を狙って「スペイン生活でもっとも苦労したことは」と水を向けても、「ない、ですねー」と笑い返されてしまった。そうして、ささいなことでも苦労したと眉を寄せトラウマだと顔を曇らせてみせる奴らをまとめてなぎ倒すような、ケラケラと明るい笑い声をたてた。

KAORIと初めて出会ったのは、私がスペインに来て半月後に行われた『マドリッド日本人会・秋のソフトボール大会』。同じ商工会チームだった。この大会では女性はキャッチャーを務めると相場が決まっているのだが、運動神経ゼロの私がぐずっていると、彼女が颯爽とプロテクターを装着してポジションについてくれた。ごめんね、そう謝る私に、「だいじょうぶですよー」と、彼女はやっぱりケラケラと笑ってみせてくれたのだった。


彼女のスペイン移住は、家族、とくに父親からの影響が大きい。横田基地の近くにあるピザ店で働いたのをきっかけにラテン好きになり、イタリア修行を経て自らのピザ店を開いた父は、彼女が高校2年生のとき、突然の家族旅行を断行する。「海外旅行するから、パスポート取れ」 こうして同級生が進路で悩んでいた夏、一家はバルセロナとローマをまわる1週間の旅に出かけた。

1990年といえば、バルセロナでオリンピックが行われる2年前。いまでこそ治安面で注意が呼びかけられる都市になってしまったが、当時はまだのんびりとしたもので、古式ゆかしき掏摸がその芸を披露する機会をうかがっていたくらいだという。

はじめの海外旅行の第1日目、スペインについてまったく予備知識のなかった17歳の彼女が目にしたのは、あのサグラダ・ファミリア。「と、とんがりコーンだ!」 それまでキリスト教の教会なんて興味ないし、なんてハスに構えていたのだが、ぶっ飛んだ。とにかく、感動した。もともと絵画、とくにピカソが好きだったこともあり、次いで訪れたピカソ美術館でも、猛烈に感動。青い空、なかなか沈まない太陽、明るい雰囲気。全身でスペインを感じながら毎日街を歩きまわった。「なんか、合ってるかも」 日本では「オタクで変な子」だった彼女が、父親ゆずりのラテン好きになった瞬間だった。

帰国後、高校を卒業したらスペインへ行くことを決意。父親は怒ったのだが、「もともとはお父さんのせいじゃない」という言葉には反論ができなかった。受験勉強にいそしむ同級生を横目に、スペイン大使館などに通って資料収集の日々。バルセロナで話されるのがカタラン語であると知り、まずは標準スペイン語を学ぶためマドリードで勉強をすることに決めた。こうして高校3年の2月、今度は母親とふたり、ビザ申請に必要な書類を揃えるために再びスペインへと旅立った。


夢と希望に溢れて、マドリードの空港に降り立つ。ホテルに到着後、すぐにタクシーに乗って、入学する予定の大学名を告げた。窓の外には見知らぬ風景が流れる。やがて、だだっ広い場所で「はい、ここだよ」と車を降ろされた。マドリードの郊外、現在は立派な見本市会場となっているが、当時はまだ整地中だった場所。小さな建物の周囲に、ジプシーたちの小屋が立ち並んでいる。とっとと走り去るタクシーを見送って、はじめて気がついた。「騙された!」 最悪のスタート。母娘ふたり、言葉もわからない外国で立ちすくむ。辺りが、暗くなりはじめた。

 

 

第5回: 自らを助くるもの(後編)