第621回:北斗星ファンクラブ - 寝台特急北斗星 4 ロビー -
車窓右手に海が広がる。灰色がかった、くすんだ青。白波は小さく、風は穏やかだろう。曇天にいくつか隙間があって、灯籠の和紙に透かしたようなオレンジ色の光が見える。島影が見えないうちは津軽海峡で、海岸線沿いのカーブを過ぎて、函館山が見えたところから函館湾だと私は思っている。
函館山が見えた。ここから海は函館湾
来年3月に北海道新幹線が開業すると、この区間は道南いさりび鉄道になる。津軽海峡の漁り火は、夏から秋にかけて行われる真イカ漁の灯火だという。残念ながら、冬の朝の列車からは見えない。空に海鳥の姿もない。海はまだ眠っている。
ロビーに人が集まる。食堂車の朝食を目当てにする人々だ。遠くに函館山が見える頃、食堂車から開店の放送があった。Sさんと私も行列に加わる。全車指定席の北斗星だけど、食事もシャワーも行列だ。盛況は良いけれども、のんびりとした北斗星の旅には似合わないとも思う。
食堂車は開店早々から盛況だ
朝食は洋定食と和定食の2種類。これはブルートレインブームの頃から変わっていないと思う。私は和定食だ。焼き鮭、玉子焼き、笹かまぼこ、鶏肉牛蒡巻き、梅干し、小茄子の漬物、わさび漬け。列車の中で温かい飯と味噌汁を食べる。ありがたき幸せである。Sさんは洋食を好むようだ。メニューが大きく変わることはないだろうし、何度も乗ると洋食のほうが飽きないかもしれない。あるいは洋食和食を交互に食べていて、今回は洋食の番だろうか。ハッシュポテト、厚切りハム、ソーセージ、スクランブルエッグ、サラダ、パンも凝っている。小さなフランスパンだろうか。
和定食
食事中に函館駅に到着した。若い頃なら機関車の交換を見に行くところだ。今は食堂車に落ち着いている。大人になってしまったなと思う。列車の向きが逆になって、五稜郭を過ぎてしばらく走ると列車は高架へ上った。下り列車専用の線路、藤代線だ。新函館北斗駅のある上り線とは離れている。街を見渡した後は山の中。地面は雪で真っ白になっている。
Sさんは北斗星に乗り続けた。北斗星の常連というと、鉄道マニアとか、北斗星にこだわる人というイメージを持たれやすい。そこに違和感がある、と打ち明けられた。本も出したので著者としても宣伝する責任を感じているだろう。このところ取材を受ける機会も増えている。
洋定食
「あるテレビ局に取材されたとき、北斗星の情熱が足りない、と怒られたんですよ。ひどいと思いませんか」と笑っていた。
なくなって寂しい、とか、何が何でも残して欲しい、とか。取材者はそんな答えを期待しているようだ。しかし、Sさんにそんな気持ちはない。誘導尋問のようなやりとりの中で、語るほど言葉と気持ちが離れていく。ああ、それはもどかしく、辛いだろうなと思う。取材者として、私も反省しなくてはいけない。
藤代線から朝日を見る
廃止に反対か、廃止されて寂しいか、と言われると、そうでもない。仕方ないな、そうなるだろうな、と、本人は冷静だ。好きだけど、こだわっているわけではないという。それはたとえば、友達以上恋人未満のような関係かもしれない。
廃止報道が始まってから、Sさんの友達、北斗星の性格は変わってしまった。普段の暮らしに寄り添ってくれた存在が、いまはスターになっている。その立場を否定できないだけに、余計に寂しさがつのる。廃止前のお祭り騒ぎには乗れない。だけど、そっと最期を見届けたい。
駒ヶ岳は雲に隠れていた
Sさんは上り北斗星とのすれ違いを撮ったという。写真を見せてくれた。もうひとつのチャレンジも成功したと嬉しそうだ。なにかと聞けば、北斗星の車窓から、北斗七星を撮ったそうだ。デジタルカメラの液晶モニターを見せていただく。小さい画面の黒い写真、あっ、ほんとうだ。たしかに小さな白い点が並んでいる。
「Sさん、もしかして、寝てないんじゃありませんか」
「はい、眠れませんでした」
やっぱり、彼は北斗星が好きなんだな、と思う。私が眠っている間、彼は自分なりの“お別れの時間”を過ごしていたようだ。彼が2階で私が1階。正解だったと思う。後に彼はブログで「下のライターさんはすぐに寝てしまったようです」と書いていた。いびきが大きかったかな、と笑ってしまった。
眠っていないはずのSさんは、ロビーでますます元気になっていく。
「もうすぐ、大きなカーブがあって、先頭の機関車が見えますよ」
「この海岸沿いの景色が好きなんです」
カメラを持って、進行方向右側の窓、左側の窓へ移動する。私もカメラを持って追いかける。ロビーに集まった人たちも、そんな私たちに釣られて動く。Sさんは、どの時間にどんな景色が表れるか、すべて頭に入っている。もはや北斗星と一体だ。
室蘭の観覧車
その様子を見て、周囲の人々はSさんの正体に気づき始めた。
「もしかして、この本を書かれたかたでしょうか」
みんなSさんの著書を持っていた。もう隠しても仕方ないでしょうと私が促す。そうですね、とSさんがサインに応じる。私はなんだか、罪のない人に自白させた悪徳刑事のような立場になっていた。まあいいか、ロビーの人々は喜んでいるようだし。
ここからは「北斗星を語る談話室」になった。参加者は代わる代わるに北斗星の思い出を披露する。何度も乗っている人がいて、とても詳しい。北斗星に留まらず、トワイライトエクスプレスなど他の列車の話も混じる。Sさんの知らない話もあるようだけど、Sさんの話は経験に基づくからおもしろい。
車窓に馬が現れた。Sさんが好きな風景のひとつ
Sさんの持つ北斗星グッズのコレクションは、今はもう入手できないものもあるそうで、誰もがうらやましがっていた。私が北斗星のクッキーを買いそびれたというと、参加者の女の子がひとつ譲ってくれた。君も必要だから買ったのだろうと遠慮したけれど、帰りの北斗星で買えるから、という。優しい。そして、この時期に往復とも北斗星に乗れるなんてすごい。何度も窓口に通って、キャンセル待ちを手に入れたそうだ。
ときどき、Sさんが車窓を解説してくれる。室蘭の観覧車は私も知っていたけれど、その先で馬の放牧があるとは知らなかった。Sさんの予告通りに馬の姿が見えて歓声が上がる。苫小牧に到着直前には“ネピアのアパート”があった。長方形の集合住宅がティッシュのネピアの箱と同じ塗装になっている。王子製紙の社員寮ではないかという。何もなければぼんやりと見過ごすところだ。
ネピアアパート
私を含めて数人がSさんを囲む会は盛況となった。楽しい時間は早く過ぎていく。北斗星のロビーでのんびりしていたはずだけど、新幹線のように短く感じた。車窓に新千歳空港が現れる。札幌まではもうすぐだ。私はSさんにお願いして、車内でイラストを描く様子を撮らせて貰った。楽しい旅だったけれど、取材の体をとりつくろう必要がある。北斗星の終焉に合わせて、コラムを書くつもりだ。それはSさんも承知で、著書の宣伝に協力するという建前になっていた。本音は二人とも本気で楽しんでいたけれど、建前は大事である。
札幌駅で新聞記者さんがSさんを待っていた。Sさんはインタビューに応じており、その記事に添える写真を撮りに来たそうだ。青い客車に描かれた、北斗星のエンブレムの前。撮影の間、私はSさんの鞄の見張り番を務めさせていただく。
さようなら、北斗星
記者さんが帰った後、私たちは北斗星が去って行く姿を見送った。さようなら北斗星。Sさんは最終運行日まで、どこかで無理のない感じで見送りたいという。私はたぶん、これで北斗星とお別れだ。
私は遠くを見ているSさんに声をかけた。
「最近、札幌名物として話題のスープカレーを食べたいです。付き合っていただけませんか」
「いいですね」
私とSさんの旅は終わらない。Sさんの次の題材は福井県のえちぜん鉄道である。次は福井で会いましょうと約束した。
-…つづく
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