■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”~
第50回:遠くへ行きたい
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第51回:お国言葉について

■更新予定日:隔週木曜日

第52回:車中の出来事

更新日2005/06/02


店を始めて5年半、毎日ずっと自転車で用賀村と自由が丘村を往復しているので、勤め人の頃に比べて電車を利用する機会がかなり減った。ときどき、酒を飲みに行くなどして店に自転車を置いて帰ったときなどは乗ったりするが、いつも比較的空いていて、あの満員の通勤電車に押し潰されるような格好で乗車したことは、すでに遠い記憶のできごとになっている。

そんな話を店ですると、たいがいのお客さんは一様に羨ましそうな顔をされる。とにかく、手や足を始終突っ張りながらひたすら圧力に耐え、急ブレーキでバランスを失ったとき、自分の姿勢を保つためにかばう手の位置さえ、周囲の女性に気を遣わなければならない。あの喧噪の時間帯が私の生活からなくなったことは、やはり喜ばしいことなのだろう。

ここ数年減ったとは言え、それでも今までにおそらく1万回以上は電車を利用したことがあると思う。それだけ乗っていれば、実にいろいろな人たちに出会す。中にはずいぶん変わった行動をする人もいて、それはそれでぼんやり見ているとなかなか楽しいものである。

一昨日の晩遅くなったため店で2時間ほど仮眠をとり、昨朝7時過ぎに自転車で帰宅途中、やはり自転車で用賀の駅に向かいかなりのスピードで走っている二十歳代半ばのOLと見受けられる女性がいた。彼女は家を出てくる直前に洗ったままドライヤーも掛けず、ブラシさえも通さぬ髪を振り乱し、顔にはまったく化粧気がない。この人はまさかこの髪と顔で会社に出勤するつもりではないだろう、どうするのかと一瞬、余計なことを考えたが、すぐに思い当たった。電車の中でメイクをするのだ。

はじめは「ゲッ」と驚き、我が目を疑うような衝撃的行動だったが、最近ではすっかり定着してしまった感さえある「車内化粧」。私には未だに彼女たちの心情が理解できないでいる。ほとんどの場合、先の彼女のように時間的なゆとりがないことから来ている行動なのだろう。けれども、人知れず行なうから「化ける」というのであって、人前では化けることにならないのではないか。だから個人的に考えると、厳密にはあの行為は化粧と言うに当たらない気がするのだが。

私の店によく来てくださるお客さんで、自称「車内化粧評論家」と言う方がいらっしゃる。彼は別にその評論で生活を立てているわけではなく、工学系の学校の教授として立派なお仕事をされているのだが、車内における観察でもその慧眼を遺憾なく発揮されているらしい。

彼は「化粧する人」を初めから終わりまで、つぶさに観察を続ける。つまり対象者の一部始終をずっと凝視し続けるのだ。見られていることはわかっていても、彼女たちは化粧をまったく止めないそうだ。教授の心臓もかなり強いが、化粧人たちの心臓も負けていない。車内のその一角には、まさに真剣勝負の緊張感が漂っているのだろう。

「注意したりしないんですか」と店で他のお客さんに聞かれると、「だれがあなた、あんなおもしろいものを止めさせなくてはならないのですか」。教授は満面の笑みを浮かべ、そう答えられる。

ひと頃大きな問題になった、車内の携帯電話での会話は、電話にメール機能が付設されてからめっきり減ったようだ。今でも大声で携帯電話で話しているのは、たいがいは50歳を越えたおじさん、おばさん方ぐらい。それより若い方々の多くは、気忙しく携帯を開き、素早いタッチ・スキルで一心にメールをうち続けている。都内のどの路線のどの車両に乗っても、この紋切り型のような光景が繰り広げられているのだろう。

先月から、都内のほとんどの私鉄で導入された「女性専用車両」。なかには性差別だと声高に批判するむきもあるが、それだけ痴漢が多発している実状から導入されたのだから、しばらくは静観して様子を見るのが肝要だと思う。

痴漢と言えば、私も一度目撃した経験がある。もう四半世紀以上も前のこと、京王線の明大前から急行に乗り次の調布駅までの間の出来事である。この二駅間は私鉄の中では最も所要時間が長い区間であるため、痴漢の件数がとても多いとのことだ。

それほど満員とは言えない車内、近くにいた今の私くらいの年齢、五十がらみのサラリーマンが、ドア付近で隣のOLの女性に身体をすり寄せているように見えた。はじめはよくわからなかったが、彼女の顔からは困惑と恐怖の表情が見て取れたので、私は、これは痴漢行為だと判断し、「おっさん、人が嫌がることはやめなよ」とサラリーマンに向かって低い声で呟いた。

彼は一瞬驚いてその行為を中止し、こちらを振り向くと、「何だ、このガキ、俺は何もしてないのに因縁つける気か。ふざけるな、次の駅でナシつけようか」と凄んできた。「ああ、いいすよ」と答え、しばらく睨み返し、次の駅でどう対応しようかと緊張して頭を巡らし、その時を待った。アドレナリンが徐々に分泌されるのを感じた。(前号に引き続きよく分泌される)

そして、調布駅に到着した。私は咄嗟の攻撃に備え一瞬身構えたが、そのサラリーマンはドアをこじ開けるようにして外に出て、まさに一目散に逃げていってしまった。人々にぶつかりながらも、すごい逃げ足の速さだった。

私が「ええっ」と呆気にとられていると、件のOLの女性が私に向かって「先ほどはありがとうございました。とてもとても助かりました」と言って、何回も頭を下げられた。そして、彼女も急いでいるようで足早に改札口に去ってしまった。私は、すっかり拍子抜けして、仕方がないから駅前の立ち食い蕎麦屋に入った。無性に腹が減ったのだ。

痴漢とはかなり違うけれど、私も人の品行のことをあまり言える立場でもない。サラリーマン時代、酔っぱらって電車に乗ったときなど、眠り続けて何回も始発、終着駅を往復し、なぜか自分の降りるべき駅の次の駅で目を覚まして「一体僕はいつ自分の駅で降りられるだろう」とぼんやり考えながらまた眠ってしまう。そして、終いには終着駅で駅員さんに起こされ、高いタクシー代を払って家路に就くことになるのだ。

昨日は、店に自転車を置いてきた。久々の電車通勤で、今日はどんな光景に出会えるのだろう。少しだけ楽しみである。

 

 

第53回:テスト・マッチ