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■亜米利加よもやま通信 ~コロラドロッキーの山裾の町から

第504回:討論=ディベイト、演説=スピーチ

更新日2017/03/16



アメリカの中高、大学の授業…強いてはクラブ活動で、日本にないもの、それは"ディベイト"でしょう。日本にないのですから、適当な訳語もなく、"討論"と訳されていますが、普通の意味での討論とはかなり異なります。

ディベイトはアメリカの文化と言えるほどどこの学校でも盛んで、トーナメント方式で校内のクラス別対抗に始まり、市、郡、州から全米大会まで及びます。ディベイトの特徴は主催がテーマを決め、たとえば"火は人類を幸福にしたか、不幸にしたか"というような論題で、一つのチームは"幸福にした"、もう一方のチームは"不幸にした"と、様々なデータなどを持ち出し、相手のチームの言葉尻を捕らえてやり合うのです。そこには自分自身の思考、主義、信条はなく、ただ議論で相手をやり込めることだけに焦点が絞られます。それを通常5人の審査員が聞き、どちらが優勢であったかを判断し、勝ち負けを決めます。

ですから、相手の小さな間違い、議論上の欠点、間違いを見逃さずに突き、それを全面否定まで持っていくかが重要で、大きな鍵になります。そこには自分自身の確固たる信念を皆に広く理解してもらおうという意図は初めから全くなく、あるのは白を黒と言い切る能力です。

そうなのですが、アメリカでは優秀なディベイトチームにいて、よい成績をおさめた、ましてや全米チャンピオンチームのメンバーだったとなれば、法曹界だけでなく、大企業からも引く手あまたで、とても良い仕事に就けることが約束されたようなものです。ディベイトの能力、簡単に言い負かされない言語能力が、アメリカの社会では大切だということでしょうか。

"はじめに言葉ありき"と言うほど、西欧では言葉が重んじられていることは事実です。言い合いや討論を重ねることによって、互いの違いをはっきりさせ理解が深まるという一面は確かにあるでしょうけど、トコトン相手をやり込めるのは逆に傷口を広げるだけの結果になり兼ねません。しかしながら、民族、文化、宗教、ましてや言語まで異なる人と理解し合うのは、まず言葉に頼るほかありません。

日本人同士では、はじめに心あり…言葉は自分自身の情緒、心情を吐露するもので、善意ある心は必ず通じる…以心伝心ということになるのでしょうか。アメリカ的ディベイトを日本の社会でやれば、浮き上がってしまうだけでなく、屁理屈ばかりコネル社会的失格者とみなされるのが落ちでしょうね。でも、アメリカ的ディベイトにしろ、アメリカ人は言葉、議論をゲーム、スポーツ感覚で楽しんでいるのですが…。

日本では何を言ったかではなく、何を行ったかの方に重点が置かれ過ぎ、演説は重要視されていないように見受けられます。シーザーのルビコン川を渡る前の演説、ヒットラーが何十万の聴衆を興奮させる演説、ケネディー大統領やマーティン・ルーサー・キング博士の名演説などの土壌が日本には育たなかったように思います。日本の首相の答弁、演説、天皇陛下の新年の挨拶でも、あんな短い挨拶、演説を下書きの紙を見ないで話すことができないの、と思わせます。

日本にスピーチの伝統がないことを嘆き、スピーチに"演説"という訳語を与え、固定化させたのは福沢諭吉です。彼は演説を日本に持ち込み、盛んにし、広めようと異常な情熱を傾け、終いには三田の慶応義塾に"演説館"まで建てましたから、相当な入れ込みようだったのでしょう。そのおかげで日本に演説が根付いた…とも言えませんが。 

福沢先生が嘆くほど、日本に演説がなかったわけではありません。主に浄土真宗においてですが、坊さんの説教、法話は一種のスピーチと言ってよいのではないかと思います。でも、あれは教会での牧師さんや司祭さんがアリガタイ教えを一方的に説くようなもので、途中でヤジをとばしたり、「オット、そこんところ、違うんじゃないの?」とか、チャチャを入れることなどできません。

福沢先生は坊さんの説教なんかではなく、もっと自由な立場で論議できる場を作りたかったのでしょうね。福沢先生、日本的な神を、とりわけ神社のお札をありがたがる神経を軽蔑し、お札を足で踏みつけたり、小水をかけたりしたと"自伝"(これはとても面白い自伝です)にありますから、福沢諭吉さん、どうしてどうして、ナカナカやるのです。

スピーチで最悪なのは、日本の結婚式での上司や学生時代の友人代表の挨拶でしょう。新婦は才媛、新郎は秀才が決まり文句で、これに対応できるほど酷いのはアメリカの教会(全部ではありませんが)のプリーチ(聖書に題材を取った説教)でしょうか。両方とも意味のない紋切り型を長々と続けるところに特徴があると言えるかもしれません。

日本的な美徳とみなされている、静かに一歩下がった控えめな態度、謙遜は西欧の社会では通じにくく、自分の意見を筋道を立てて話すことのできない人間は知恵遅れか、社会的失格者とみなす傾向があります。自己主張が何よりも大切なのです。何を考えているか分からないような人間は何も考えていないと思われます。

川端康成さんがどこかの公演で盛んに言っていた"以心伝心"(この言葉、うちの仙人によれば、中国の宋代のお坊さん、道元が『景徳伝灯録』という本で唱え始めたそうです。それにしてもウチの仙人、本当に奇妙なことをよく覚えているものです)は、西欧社会ではまるで通じません。

ディベイトは確かに新しい創造的、建設的な意見を生むための討論ではなく、単に論争のための討論ですが、論旨をどう展開させるか、それに相手の言うことを良く聴き、その不備を突くというトレーニングにはなるでしょう。もっとも、それを教授会などでやりたがる先生がいるのは(必ずいるのですが…)困りものですが…。

ディベイトの良いところは、勝っても負けても、互いに審査の結果に悔いを残すことがなく、ましてや相手チームを恨むことがないということでしょうか。この点では、スポーツのフェアープレイに似ています。個人的なシコリを残さないのです。

これから、日本も国際的な場所で論議を重ね、交渉しなければならない機会が増えていくでしょう。そんな時、自分や会社、さらには国の立場を筋道立てて主張できる能力、駆け引きが必ず必要になってきます。議論を重ねるのは、その過程において理解を深めると同時に、自分自身の主張を固めることになります。ネバリ強さを生むのです。

ディベイトはそんな時のためのトレーニングくらいにはなるでしょう。日本の学校でも外国語を駆使したディベイトを行い、アメリカやそのほかの国のディベイト選手権に出場するようになればいいと願っています。

 

 

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Grace Joy
(グレース・ジョイ)
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中西部の田舎で生まれ育ったせいでょうか、今でも波打つ小麦畑や地平線まで広がる牧草畑を見ると鳥肌が立つほど感動します。

現在、コロラド州の田舎町の大学で言語学を教えています。専門の言語学の課程で敬語、擬音語を通じて日本語の面白さを知りました。

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