■このほしのとりこ~あくまでも我流にフィリピンゆかば

片岡 恭子
(かたおか・きょうこ)


1968年、京都府生まれ。同志社大学文学研究科修士課程修了。同大学図書館司書として勤めた後、スペイン留学。人生が大きく狂ってさらに中南米へ。スペイン語通訳、番組コーディネーター、現地アテンド、講演会などもこなす、中南米を得意とする秘境者。下川裕治氏が編集長を務める『格安航空券&ホテルガイド』で「パッカー列伝」連載中。HP「どこやねん?グアテマラ!」




第1回:なぜかフィリピン
第2回:美しい日本がこんにちは
第3回:天国への階段(前編)
第4回:天国への階段(後編)
第5回:韓国人のハワイ

 

■更新予定日:第1木曜日

第6回:まだ終わってはいない

更新日2005/07/07


マニラのチャイナタウンにあるホテルで豚まん食べて豆乳飲みながらNHKを見ていたら、ミンダナオ島のゼネラルサントスで旧日本兵発見とのニュースが飛びこんできた。まったく驚かなかった。フィリピンのジャングルにはなんだって潜んでいるだろう。まだ”発見”されていない未開の民族だって住んでいるだろうし、未知の生物だってうようよいるに違いない。だからこそ、川口浩探検隊は何度もフィリピンに探検しにきたのだ。

小野田寛郎さんがやはりフィリピンのルバング島で発見されたのが、終戦からほぼ30年後の1974年。この2年前にはアメリカのグアム島で横井庄一さんが、同年にはインドネシアのモロタイ島で中村輝夫さんが発見されている。今年は戦後60年。ミンダナオの日本兵の話がもし本当なら、小野田さんの倍も隠れおおせたことになる。

人を隠すのはジャングルだけではない。人が隠れるには人に紛れこむのが最善の方法だ。国外に逃亡している指名手配犯の実に3分の1近くがフィリピンに潜伏していると言われている。悲しいかなフィリピンはいまだに金でなんとでもなる国である。物価も安い。退職後の移住先として年金生活にもってこいなだけではなく、潜伏生活にも適している。


日本語教室の宣伝カー

海外でどんなことに気をつけたらよいかとよく訊かれる。いつも必ずこう答えることにしている。日本語をしゃべる人に気をつけなさいと。日本人をカモるために日本語をしゃべる現地人はもちろん、母国語としてしゃべる日本人も含めてだ。発展途上国に住む日本人ははっきり二種類に分かれる。志高く海外で勝負を賭けている人か、日本ではとてもやっていけない人。残念ながらフィリピン、特にマニラには圧倒的に後者が多いように思う。

成田-マニラ間の飛行機内は、初老の邦人男性と若いフィリピン人女性のカップルでいっぱい。邦人男性の団体も多い。小指のなさそうなガラの悪い人はいても、邦人女性とフィリピン人男性はほぼ皆無。その中で私のような一人旅の邦人女性はあまりに稀有だ。

今回、空港に着いて早速停電。いかにもフィリピンらしい出迎え方だなと思いながらイミグレーションで並んでいると、後ろに並んでいたにいちゃんの携帯に電話がかかってきた。「今、イルミネーション。え? イルミネーションだよ」とそいつが答えているのを聞いて、日本人のたまり場、マラテペンションに泊まるのはやめた。休暇で来ているならおもしろいネタが拾えて大喜びだが、商用ならばそんな連中の中にいるとただ疲れるだけだ。

去年、ミンダナオ島最西端サンボアンガに行った。山下将軍の財宝を探しに日本人がよくやってくるのだと、タルクサンガイというムスリムの集落で住民が教えてくれた。マルコス元大統領の政治資金は、探し当てた山下財宝によるものだと言われている。太平洋戦争で日本軍が侵攻したところには多くの伝説めいた話が残っている。たとえば、ビルマの奥地には旧日本兵の村があるとかそんな類の。ミンダナオにもやはりそんな話はあった。

ミンダナオの旧日本兵の話は、仲介者の日本人の証言は信憑性が低いといういかにもフィリピンらしいオチで終わった。だから、日本語をしゃべる人には要注意なのだ。この手の輩はフィリピンにごまんといる。まんまと日本大使館もマスコミも踊らされてしまった。

この騒動の直後、フィリピン残留日本人2世の姉妹が日本国籍を求めて来日した。戦前、ミンダナオ島ダバオには日本人が多く移住し、マニラ麻の生産に従事していた。当時、在留邦人は2万人を超え、ダバオの日本人町はアジア最大であった。今でも現地の博物館にはその様子を撮った写真が展示されている。


フィリピン-日本歴史資料館

ダバオと同じく多くの移民が渡ったブラジルでも日本人は麻を栽培した。それまでブラジルはわざわざインドから輸入した麻袋に詰めてコーヒーを輸出していた。日本人移民が入植時に東南アジアから持ちこんだ苗が、初めてブラジル国産の麻袋をつくったのである。麻は日本人移民に縁が深い作物なのだ。

戦争が始まるとダバオは日本軍の重要拠点となり、戦中にダバオ周辺で戦死や病死した日本人は、民間人を含む2万5,000人以上にも上る。フィリピンにとって敵国であった日本。戦後、移民の子孫たちは日本人であるということを隠して生きなければならなかった。就籍の申し立てをした姉妹のような残留日本人はフィリピンに2,000人以上もいる。

旧日本兵騒動は空振りに終わってしまったが、誰にも知られることなく東南アジアの奥地で独り亡くなっていった旧日本兵は少なからずいたのではないか。もし生存しているとしたら、かなりの高齢であるはずの旧日本兵。そして、発見されるまでもなく確かに存在する、日本国籍を持たないフィリピン残留日本人。60年経ってなお戦後は続いているのだ。彼らのことを決して忘れてはならない。

 

 

第7回:フィリピングルメ