第2回:Chungking express (後編)更新日2005/12/01
しかし考えるのと実行するのでは大違いで、いざ宿探しという段階になって困ってしまった。というのも見つからないから困るのではなくて、もうこれでもかというくらいにしつこいインド系の呼び込みの中から、一つの宿に絞りきらなければいけないからだ。
彼らは毎日毎日バックパック背負った新顔を、飽きることなく標的にし続けているのだから、それぞれに露骨なもの狡猾なもの違いはあれども、僅か1ドル未満の戦いに関して歴戦のプロフェッショナルだという点では共通している。
普段は部屋を見てから決めるというのが、こういった類の宿の基本である。値段が値段なのだから何処も似たり寄ったりだろうなどと甘く考えると、そこはこういった宿の常識で、間違った選択をしてしまえば夜中に隣でヨカラヌことが始まったり、南京虫に体のいたるところを喰われ続けて、寝るに寝れない夜を過ごすことにもなりかねない。
しかしここチョンキン・マンションに関しては、その余りに圧倒的な規模や数からして一々見て回るというわけにはいかない。つまり重い荷物を抱えて巨大なビルの中をあっちこっちと汚い部屋を見て回るよりは、この路上での呼び込みとの戦いに神経を集中させることが大事になる。
やっとのことで宿を決めて、荷物を降ろしほっと一息つく。 まず最初にすることはバッグからチェーンを取り出して、それを部屋の中の適当な個所と絡めてロックする。これはこういった宿で泊まる時の儀式のようなもので、これをしたからといって絶対に安心というわけではないが、何もしないよりは心理的にマシという程度のものだ。
基本的に宿の外部からの侵入者に備えてというのもあるが、これは宿の主すら安心できないという経験からもきている。部屋は3畳程の広さにベッド、使い物にならない冷蔵庫とテレビが一つずつ、それに東南アジアによくあるタイプのトイレの真上にシャワーの蛇口がついているもの。これは狭さとの戦いから生まれた傑作的アイデアで、シャワーを浴びれば便器の汚れも同時に洗い流せるという優れもの。もちろん西洋式の場合は、シャワーの後だとビショビショの便座を覚悟しなければならないのだが。
というわけでこの宿、快適さとは程遠いものだったが、なんとか寝るのに不都合はなかった。ビル自体としては明らかに違法増築に違法増築を重ねたであろう無茶苦茶な設計で、何処の国から流れてきたのかわからない黒人がダンボール箱を抱えて廊下を行き来し、バングラディシュ方面からの出身らしき女性がどうどうと売春を行い、この中に100も200もあるといわれるゲストハウスの宿に混じって、怪しい国籍の食堂が狭い一室からこれまた摩訶不思議な香りを漂わせていたりという全くもっての異次元世界。
もう何が何やら訳がわからないという言葉がぴったりの場所である。そういえば寝るのに不都合はないといったが、我慢ならずに部屋を引き払った最後の夜は、午前2時から3時頃に薄い壁を隔てた隣の部屋で、酔っ払ったインド訛りの英語を話す女数人と男が、ドアを開けろと騒ぎつつ扉を蹴るは、何かでガンガン殴るはの大騒ぎ。翌朝、ドアの前に落ちていた物はなんと野球のバットほどの棒切れだった。
異質なものが同居する香港の中にあって、さらにその度合いを圧倒的に深めた存在としてこのビルは記憶に刻みこまれた。旅が面白いのは、こういう風に想像していたものと実際に経験した場合における違いをはっきりと実感できることだ。
例えばここに来てみるまでは噂にその姿を聞いて勝手にイメージしてはいても、現実は想像とはまったくかけ離れたものだった。自分の中でこのビルのイメージは、やっぱりどこかチョンキン・エクスプレスの中で主人公の女の子が、やたらと大音量でパパス&ママスのカリフォルニア・ドリーミングを流しながら夢見ている姿だったのだ。
そして気が付けば自分がこれほど旅を繰り返しているのも、何処かにある自分の中のカリフォルニア・ドリームを求めて彷徨い続けているせいなのかもしれない。
そんなことを移った先の安宿のベッドの上で、つい先週までいた現実のカリフォルニアに重ね合わせてぼんやりと考えていた。
第3回:California
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