第513回:老駅長、佇む - 井笠鉄道記念館 -
新山バス停には10時30分に着いた。小田東バス停から13分ほどだった。自転車なら30分くらい、徒歩なら1時間だろうか。今日は天気がいいから自転車も心地よかっただろう。道順は携帯端末の地図が教えてくれる。次に来る機会があれば自転車にしよう。
新山バス停では、私ともう一人の男性が降りた。男性が運転手と親しげに話している。井笠鉄道記念館への道順を訊いているようだ。私も挨拶して、ご一緒させていただく。歩き出す前に帰りのバスを確認する。小田へ戻る私のバスは11時57分。彼は引き続き笠岡へ抜ける予定で、11時45分である。時計代わりにして申し訳ないけれど、彼と一緒に戻ってくればバスに間に合う。
バス停から井笠鉄道記念館への道
井笠鉄道記念館はバスのルートから約200メートル離れた広い道に面している。田んぼの横の道を歩きつつ話を聞く。彼はバスの起点の矢掛駅から乗ったとのこと。バスの運転士は井笠鉄道でも運転士だったそうで、私が小田から乗る前に、昔の話をいろいろと聞いたという。矢掛には井笠鉄道の駅舎が残り、このバスは軽便鉄道のルートをほぼなぞっている。彼の旅は井笠鉄道の廃線巡りである。
矢掛駅の佇まいが良いと見学を薦められたけれど、残念ながら今回は立ち寄れない日程である。そして廃線巡りをするくらいなら活きた路線に乗りたい。日本国内の線を巡り終えたら、印象に残った路線にもう一度行くか、海外に行きたい。廃線巡りは迷宮だし、そもそも列車に乗れない。廃線跡の新山駅に来た理由は、活きている井原鉄道の最寄り観光施設だからである。
場所はすぐにわかった
大通りに出ると、井笠鉄道記念館はすぐにわかった。交差点の対角にあり、腕木式信号機が立っている。その向こうの瓦屋根は新山駅舎。屋根が手前に張り出し、上向きになっている。それが旧ホームの屋根だ。とてもわかりやすい形である。
駅舎の隣に小さな蒸気機関車と客車が置いてある。ちゃんと屋根の下にあって、保存状態は悪くない。もし閉館となったら、どこが引き取ってくれるだろうか。蒸気機関車は井笠鉄道の廃止後、西武鉄道に譲渡され、山口線のおとぎ列車として運行されていた時期もある。私は当時に乗る機会はなかったけれど、東京にも思い出を持つ人はいるだろう。
旧新山駅舎の面影を遺す
機関車の運転台や客車の内部にも入れた。おおらかな管理方針のようだ。入館者もマナーがよいらしく、荒れていない。小さな客車のロングシートに座る。横向きになって車窓を眺める。列車に乗って到着したような、そして今にも動き出しそうな気分になる。走り出したらどんな風景だったろうか。帰りのバスではしっかり景色を見ておこう。
西武鉄道でも活躍した機関車
駅舎の中は展示室になっていた。大小の道具や写真、路線図などが壁一面に並んでいた。路線図が興味深い。矢掛から備中小田と新山を通って笠岡へ。備中小田の隣の北側から分岐して井原、そして神辺に至る。現在の井原鉄道のルートである。軽便鉄道としては規模が大きいと思う。
かわいいターンテーブルがあった
棚にはアルバムがたくさん並んでいる。現役時代の新山駅と井笠鉄道の写真、全国各地の軽便鉄道の写真も多い。入館者が寄付しているか、新山駅長の旅の思い出だろうか。この記念館は破綻するときまで井笠鉄道が保有していた。管理は当時の新山駅長がボランティアで勤めている。駅長は今日も旧事務室に佇んで、お友達と楽しそうに何か話している。老後のお楽しみといったところだ。たしか80歳を越えているはずだ。鉄道員としては幸せな人生でうらやましい。しかし、4月以降はどうなることか。
客車の中は休憩施設になっている
アルバムの中、駅長さんの若い頃の写真もあった。真面目そうで、優しそうで、いい男だ。こんな若い頃から、ずっとこの駅一筋の人生のようだ。いや、80年の人生には、戦争もあった。良い時期も悪い時期もあっただろう。その生涯は小説やドラマになりそうである。そして、ドラマの最後の山場が今だ。彼の心の拠り所、記念館の存続問題となる。
待合室は展示コーナーになっていた
お友達が帰られたようで、駅長さんにご挨拶する。ここはどうなるかと聞いてみた。
「よく聞かれるけど、まだ何もわからない。4月になってみないと。自治体からも(井笠)バス関係からも連絡がない。でもここは残りますよ。価値があるんだから」
自信ありと胸をそらした。なにも連絡がなければ不安だと思うけれど、立ち退けという話もないから残る、という解釈のようだ。
駅長は前向きである。なにしろ産業考古学会から推薦産業遺産に指定されている。今年はじめの報道では不安を語っておられたけれど、内々には希望を持てる話があったかもしれない。
産業考古学会の認定証
一緒にバスに乗ってきた男性は、これからしまなみ海道へ向かうという。笠岡へ出て福山、そこからバスで今治へ。昨日は福山競馬を楽しんだという。福山競馬は今月でなくなるそうだ。
「消えそうなものが好きなんですよ」と彼は照れ笑いする。
一緒に食事でも、と思った。私は朝食抜き。もうお昼時であった。しかし周囲に食堂も喫茶店も、コンビニすら見えない。井笠鉄道記念館を存続させるなら、付近に飲食できる場所を用意したらいいと思う。
井笠鉄道は軽便鉄道ながら急行も走らせていた
男性は先を急ぐのだろう。ここでお別れである。私は食べ物を求めて少し歩いてみる。彼と一緒にバス停に戻ろうと思っていたけれど、食事ができるなら、次のバスまで滞在を延ばしてもいい。とにかく腹が減った。記念館の向かいに農協の建物があり、何か売っているようだ。期待して入ってみたけれど、作物の種と肥料と農業道具しかなかった。野菜や果物の直売所を期待したが、農家向けの店だった。
バス停に戻った。通過予定時刻の10分前である。また男性と会った。彼のバスは出発している時刻だった。実はここでまた会っては少々気まずいと思って、彼のバスの発車時刻後をねらって戻った。しかしバスが遅れていた。挨拶する。彼のバスが来る。本当にお別れである。良い旅を、と互いに声を掛け合った。
私が乗るバスも遅れていた。道が空いている田舎でも、バスは遅れる。やっぱりバスは当てにならない乗り物だと思う。いや、鉄道びいきだからそう思うだけで、バスはもっとおおらかな気持ちで乗らなくてはいけない。そもそも“通過予定時刻”であった。春の田舎のバス停で、コンクリートの壁に寄りかかって陽射しを浴びる。この壁の上は幼稚園のようだ。それにしては静かである。お昼ご飯の時間だから、子供たちは建物の中かな。我が身の空腹を思い出す。
バスがやってきた。行きと同じ運転士であった。ほかに客はいない。バスの運行間隔は記念館見学にちょうどいい時間でしたよ、と、お世辞を言う。やや皮肉を込めているけれど、彼は、たぶん気づかない。それより、お客がいて良かったと思っているらしい。客のいないバスの運転は張り合いがないのだろう。
「駅長、いましたか」と話しかけられた。
「ええ、お元気そうでしたよ」と答えた。
「人が来るのが楽しいんでしょうなぁ」と言った。
そういえば、彼は井笠鉄道の運転士だった。駅長は彼の大先輩のはずだ。バスは新山駅を通らないから、駅長も運転士も、それを寂しく思っているかもしれない。
この旅の約半年後、井笠鉄道記念館の施設は笠岡市に有償譲渡された。修繕改装工事を経て、2014年3月から公開を再開している。老駅長の人生ドラマは、ハッピーエンドになったようだ。
駅長さんの若かりし姿。男前である
-…つづく
|