■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”~
第50回:遠くへ行きたい
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第51回:お国言葉について ~
第100回:フラワー・オブ・スコットランドを聴いたことがありますか
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第101回:小田実さんを偲ぶ
第102回:ラグビー・ワールド・カップ、ジャパンは勝てるのか
第103回:ラグビー・ワールド・カップ、優勝の行方
第104回:ラグビー・ジャパン、4年後への挑戦を、今から
第105回:大波乱、ラグビー・ワールド・カップ
第106回:トライこそ、ラグビーの華
第107回:ウイスキーが、お好きでしょ
第108回:国際柔道連盟から脱退しよう
第109回:ビバ、ハマクラ先生!
第110回:苦手な言葉
第111回:楕円球の季節

■更新予定日:隔週木曜日

第112回:フリークとまでは言えないジャズ・ファンとして(1)

更新日2008/01/31


ジャズについて、少し書いてみようと思う。こう書き出すだけで、かなりのプレッシャーを感じてしまう。ジャズについては、演奏家、評論家の他にも一家言持っている人々が、世の中には無数に存在していて、その見識の深さは到底足元にも及ばない。

そこのところはよく分かっているつもりだが、18歳の秋に初めてジャズというものに触れてから30数年途絶えることなく聴き続け、店を始めてからは就業時間中はたいがいジャズを流していて、聴いている時間だけは少ない方でもなく、常に身近な存在ではある。

また、ある時私を知る人が、その人の知り合いに、「彼はジャズ・フリークで…」という紹介をしてくださった。それが大変好意的な紹介だったので、とてもうれしい思いがしたが、「とてもフリークとは言えないだろうな」と何かくすぐったい感じになったことがある。

そこらへんから、「僕にとってジャズって一体何なんだろう」と、少しまじめに考え出してきたので、その思いを少し綴ってみようと思う。

先ほど、最初にジャズに触れたのが18歳の秋と書いたが、この時のことはかなり具体的に覚えている。1974年(昭和49年)10月12日のことだ。

私は上京して1ヵ月あまりの頃で、その日名古屋から遊びに来ていた友人Aに、「K(私のこと)、あんたジャズのビッグバンド、俺らと一緒に聴きに行かせん?」と誘われた。その頃、私が聴いていたのは歌謡曲とフォーク、海外の音楽と言えばサイモンとガーファンクルぐらいのものだった。ジャズって何?状態である。

一方、Aは音楽大好き人間で、ロックを中心にほとんどのポピュラー・ミュージックを聴いていて、唯一聴き込んでいないジャズにその頃関心を持ち出し、あらゆるタイプのジャズを聴きたがっていたのだ。

私が答えを渋っていると、「アマチュアのバンドらしいけど、実力はかなりのもんだと言われとるでよう、ええが行こみゃあて」と繰り返し誘ってきた。そして連れて行ってもらったのが、国鉄青梅線、昭島駅から歩く昭島市民会館、当時杉並区に住んでいる私にとっても、結構遠い道のりだった。

演奏バンド名は、「昭島ビッグ・バンド・サークル」(a.b.c)と言った。会場の市民会館は八分の入り。Aと彼の友人が一番前の席に陣取るので、仕方なくその横に座り、私はホーンがガンガン演奏する音楽をじっと我慢して聞いていられるかどうか、とても不安だったのを今でも覚えている。

ところが、スーツにネクタイ姿の正装のバンドメンバーが演奏を開始すると、私はだんだんとその魅力に引き込まれてしまい、演奏が終わり、彼らが引き上げてしまうと、Aに向かって、「もうこれで終わりなのか、もっともっと演奏してもらいたいけど」と訴えかけていた。

Aはニヤニヤ笑って、「一部が終わっただけだで、心配せんでもええわ。これからすぐに二部が始まるでねえ。でも、Kがこんなに興味を持つとは思わなんだわ」と教えてくれた。.

Aの教えてくれた通り、彼らは間もなく出てきたが、今度はみんなトレーナーにGパンというラフな出で立ちで、それが私にはまたカッコよく見えた。後に、ビッグバンドは二部制の構成のとき、曲調に合わせてこうして着替えることがよく行なわれるのを知るのだが、その時はただただ感心していたのだ。

二部の始まる前に、バンドリーダーが、「ちょっと残念なニュースがあります。今日の試合で中日の優勝が決まってしまいました。巨人はついに10連覇ならず…」とコメントした。

私の同行の二人は中日ファンなので、小躍りして喜び合い、東京都内である会場の他の人々の顰蹙を買っていたが、私は当時巨人ファンで確かに残念な思いはあったけれど、とにかく早く演奏が聴きたくてならなかったので、正直それどころではなかったのである。

(今にして思えば、あの日は、「我が読売巨人軍は永久に不滅です」の歴史的名文句とともに長島選手が引退をした日の、前々日だったことになる)

二部のリラックスした曲調の演奏も素晴らしく、私は身体を前後左右に小さく揺らしながら、その音の世界に完全に浸っていた。それまで、自分がリズムに合わせて身体を動かすなどということをしたこともなかったので、そのとんでもない高揚感は、自分自身不思議でならなかった。

その日はどのようにして帰ってきたかは覚えていない。ただ、頭の中をその日の演奏が何回も何回もリフレインされていたことだけは、感覚として残っているのだ。

その日から私は、とにかく「JAZZ」というものに触れたくて、何でもいいから聴きたく堪らなくなった。そして演奏を聴いた翌日高田馬場に出かけ、ジャズのレコードが演奏されているであろう喫茶店を探し歩いた。稚拙なことに、私はまだジャズ喫茶という存在を、まったくと言っていいほど知らなかったのだ。

 

 

第113回:フリークとまでは言えないジャズ・ファンとして(2)