第101回:小田実さんを偲ぶ
更新日2007/08/02
今から32年前の昭和50年(1975年)、私は大学受験予備校「代々木ゼミナール」へ通う予備校生だった。恥ずかしながら二浪目の私は、その前に9月から某予備校へ入学したのとは違い、4月から“気合いを入れて”受験勉強に臨んだつもりだった。
代ゼミの授業では通常の講座の他に、謂わばオプションとしての講座がいくつかあった。その中から私は『英語長文読解力講座』と『英語を書く講座』を選び受講した。双方の講座の講師が小田実さんだったからである。
『英語長文読解力講座』の最初の授業で席に着くなり、予備校の係の人が全文英語で書かれたプリントを受講生たちに配布した。内容を見ると、それは『ニューズ・ウイーク』だか『タイム』だかの記事をコピーしたもののようだった。単語力のない私は、目を通しても理解できなかったからそのままにして、講師が来るのを待った。
小田さんは、12、3分遅れて、教室に入ってこられた。“大きな人だなあ”というのが第一印象だった。大きな体躯に大きな顔、髪型にも服装にもまったくと言っていいほどこだわらない、ザックリとした感触の人だった。
口を開けば、早口の関西弁で朗々と話し続ける。ただ、早口の割には言葉遣いが驚くほど平易でわかりやすい。彼は昭和7年生まれの方だから、当時は43歳、全体からエネルギーがあふれている感じだった。
簡単な自己紹介の後、早速授業に入った。
「さっき配ったプリント、アメリカの報道週刊誌『ニューズ・ウイーク』の先週号の記事なんやけど、だいたい何が書いてあったかわかるやろ。君、概要を説明してくれへんか」。
いきなり、弾は私の直前の席に飛んできた。その席の受講生の男子が言い及んでいると、「それじゃあ、前半部分だけでも言ってみて」と畳みかける。彼はたどたどしいながらも、見事におおまかな内容を説明してしまった。
「そんなとこやね。じゃあ後半部はその後ろの彼!」
“うっ、来た、まったくわからない、どうしよう”、しばらく私が固まっていると、「構文は単純なんやから、単語力がないんちゃうか。しっかり身につけるように。じゃあ、その後ろの彼女!」。
彼女は、ほぼ完璧に答えた。
大きな恥をかいてのスタートだったが、私は彼の授業が大好きだった。いつも授業中は国際情勢などの話に“脱線”していったり、時々平和活動に尽力されている活動家を授業に招いてくれたりして、当時の時代の息吹を、確実に私たちに伝えてくれようとしていた。
自分の名前は、アルファベットで「ODA Makoto」と書くのだと教えてくれたときは、私はとても感動したのを覚えている。今でこそ、日本人が姓、名の順で英文字表記するのは普通のことになったが、当時は名、姓の順でなければならないとされてきた。そのことに、私は何か説明のつかない不満があったのだ。
「日本ではリンカーン・エイブラハムなんて言わんよね。その国の姓名の順を国際的にも使ってもらったらええんちゃう。毛沢東だって英文字表記はMao,Tse-tung、はっきりわかるように、姓を大文字にしてやればいいんだから」。
その日から私の英文字表記は「KANAI Kazuhiro」になった。
授業の後、個人的に、「在日の友人が多く、朝鮮のことに関心があるのですが、まず何から勉強していったらいいのでしょうか」と尋ねたとき、即座に、「そりゃあ、まず朝鮮語を勉強したらええよ。それがいろいろと理解できる第一歩になると思うよ。僕なんか、もう年やし無理やけど」、そうおっしゃってくださった。
もう年齢だし無理だと言っていた小田さんは、その後、在日の奥さんをもらって何回も韓国に渡り友人を作った。あの方のことだから、ある程度話ができるまでになったことだろう。当時19歳だった私は、何の勉強もしないで馬齢を重ね、当時の小田さんを八つも越える年齢になってしまった。この大きな違いは、人としての質の問題だろう。
私が受講していた年、昭和50年は北ベトナム軍がついにアメリカ軍を追い出し、サイゴンを陥落し、ベトナム戦争が終結した年だった。『ベトナムに平和を!市民連合』(以下『ベ平連』)の代表だった小田さんは、授業でよくその話をされた。
ある日、ベトナムの解放を祝うベ平連のデモ集会があり、私も参加した。小田さんも長い活動の末大きな成果を得られたことがさすがにうれしそうで、珍しくはしゃぎながらカメラでデモの様子を写真に収めたりされていた。
いつしか、どこからか、デモの行列の中から『勝利を我らに』の歌が歌い出され、だんだんと大きな合唱になっていった。"We
shall over come, We shall over come, We shall over come
some day・・・"小田さんの姿を目で追うと、彼は列から少し離れたところで、しばらく空を仰ぎながら、口を小さく動かされていた。
何かの機会に、またどこか別のデモの列の中で、小田さんにお会いしたいとずっと思いながら、時だけが経ち、彼は遠いところへ旅立ってしまった。最近書かれたものを読むと、小田さんはご自分の最後を強く意識していたらしいことがうかがえる。
「ホナ、サイナラ、お元気で」「生きているかぎり、お元気で」という言葉で文章を結んでいる。小田さんらしいなと強く思いながら、私は代ゼミの教壇に立つ、あのエネルギッシュな彼の姿を思い浮かべるのである。
第102回:ラグビー・ワールド・カップ、ジャパンは勝てるのか