第354回:流行り歌に寄せて No.159 特別篇 「森田童子の訃報に接して その1」
今回から2回にわたり、4月24日に心不全のため66歳で亡くなった森田童子さんへの追悼文を書かせていただきます。通常のコラムとは違う人称の使い方や文体になりますが、どうかご容赦いただきたいと存じます。彼女の歌声を覚えていらっしゃる方に、一度お読みいただきたいと願っております。
いつも君のあとから 長い影をふんで
いつも君のあとから ついてゆきたい
森田童子の『淋しい雲』の冒頭の一節。とても心に沁みる。そう、いつも彼女は僕のあとを静かに歩いて来てくれていた、そんな気がする。もちろん、僕が先導者となっていたのではなく、彼女が、後をただずっと歩いてくれていた。
この歌は次のように続く。
*
どこへ行くあてもなく ぼくたちは よく歩いたよネ
夏の街の夕暮れ時は 泣きたいほど淋しくて
ぼくひとりでは とてもやってゆけそうもないヨ
君の好きなミセス・カーマイケル ぼくもいいと思うよ
夏休みが終わったら もう逢えなくなるネ
そうしたら時々 なつかしいミセスの 話をしようよ
夏の街の夕暮れ時は 泣きたいほど淋しくて
君ひとりでは とてもやってゆけそうもないから
*
くりかえし
夏の夕暮れになると、もうどこからやって来るのか、このメロディーが頭の中をグルグル回る。僕はいつもこの曲の君がいてくれなければ、この季節のこの時間帯を過ごして来られなかった気がする。
ミセス・カーマイケルというのは、アメリカのあまりにも有名なコメディー・ドラマ 『ルーシー・ショー』 のルシール・ポール演ずるルーシー・カーマイケルのこと。これは今や森田童子ファンの間ではよく知られた話だが、僕は最初の頃はアメリカの有名な女性作家なのではないかと、勝手に解釈していた。
けれども、夏休みが終わって(電話を通してなのか)話す話題が、あのルーシーおばさんだという方が、格段に素敵なことだと思う。こんな書き方は、森田童子ファンのステレオタイプそのものなので、ただ気恥ずかしいのだが、彼女のことを話すとなると、どうにもカッコつけようがなくなる。稚拙でミーハーな自分を露呈してしまうのだ。
彼女の存在を知ったのは、僕がちょうど二十歳になった頃、名古屋の友人から教えられたことによる。
「声がなんかアグネス・チャンみたいで可愛いけど、えらい暗い曲ばかり歌っとる人で、歌詞に太宰とか、クスリとかが出てきて、僕にはようわからんが、K君好きなんじゃないかと思って」と紹介してくれて、聴かせてくれたのが、A面に 『さよなら ぼくの ともだち』 B面に 『まぶしい夏』 が収録された、その頃出されたばかりの彼女のデビュー・シングルだった。
玉川上水沿いに歩くと 君の小さなアパートがあった
夏には窓に 竹の葉が揺れて 太宰の好きな君は 睡眠薬飲んだ 熱い陽だまりの中
君はいつまでも 汗をかいて眠った
『まぶしい夏』 の1番。太宰治の名前がでていることはさておき、逃げ場のない、汗ばんだ夏の部屋の情景を描いていることに大きく共感し、自分とほぼ近い世界にいる人だという気がした。
僕は早速レコード屋さんに出向き、ファースト・アルバム 『GOOD BYE グッドバイ』 を買い求め、件の友人に頼んでそのレコードをカセットテープに録音してもらい、テープレコーダーで何十回となく繰り返し聴き続けた。
『淋しい雲』 はB面の2曲目に収録されていた。A面の3曲目に 『まぶしい夏』 があり、彼女の描く“夏”の日の情景は、僕の心にまっすぐに届いた。次の4曲目は 『雨のクロール』。
夏の川辺に 二人は今日別れる ぼくは黙って 草笛吹いた
ウフフフ〜 ウフフフ〜
君は花がらの ワンピースおいて 静かに涙色の まぶしい水の中
ウフフフ〜 ウフフフ〜
雨に君の泳ぐクロール とってもきれいネ
雨に君の泳ぐクロール とってもきれいネ
夏がめぐり めぐっても ぼくはもう決して 泳がないだろう
その後長いこと、この風景を頭の中でイメージしていたが、5、6年してそれが具象化された絵に出会うことになる。つげ義春の 『海辺の叙景』 のラストシーン。降りしきる雨の中の海を一人泳ぐ少年に「あなた素敵よ」「いい感じよ」とつぶやく少女。
川と海の違いがあり、男と女が逆転していても、まったく同じ光景なのである。
そのうちに、森田童子はつげ義春を敬愛しており 『海辺の情景』 のラストに触発されて書かれたものが 『雨のクロール』 ではないかという説が生まれ、やがてファンの中ではその見解が定着していく。
確かに彼女はつげ義春の影響を色濃く受けていた。昭和57、8年頃だったか、はっきりした時期は覚えておらず、場所も不思議とまったく思い出せないのだが。僕は彼女のコンサートに行ったことがある。
ステージには、つげ義春の代表作 『紅い花』 の登場人物シンデンのマサジなどのキャラクターがオブジェのように置かれていた。気をつけて見ていれば、もっと多くのつげ義春の世界が展開されていたかも分からない。
そのコンサートには、友人だった女子大生と共にチケットを取っていたのだが、入退場を含め、彼女に会うことなくその日を終えた。始めから隣に座るつもりはなかったが、最後まで別行動を取ろうと決めていたわけでもなかったので、終演後に彼女を探してみたが見つからず、そのままだった。
僕は少し淋しい思いがしたが、その日の演奏について二人で感想を話し合うということが、何か気恥ずかしいというか、あるいは虚しい思いを彼女が抱いていたのではないかと思い、そうであれば自分もまったく同感だった。
森田童子は、聴き手をそんな思いにさせるシンガーだった。彼女の曲について語っても、どことなくそれは真実から離れていくだけのような気がする、ただ、お互い 「君も、聴いているんだ」 ということが分かれば、それだけで充分だった。いや、それを知ってしまったことでさえ、少し傷つき合っていたのかも知れない。
-…つづく
第355回:流行り歌に寄せて No.160 特別篇 「森田童子の訃報に接して その2」
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