■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”~
第50回:遠くへ行きたい
までのバックナンバー


第51回:お国言葉について
第52回:車中の出来事
第53回:テスト・マッチ
第54回:カッコいい! カッワイイ!
第55回:疾走する15歳
第56回:夏休み観察の記

■更新予定日:隔週木曜日

第57回:菅平の風

更新日2005/08/25


夏の甲子園が終わった。駒沢大学苫小牧高校が、57年ぶりと言われる2年連続優勝という大きな話題を残して。甲子園が終わると、一気にもう夏も残り少なくなる心持ちになる。朝夕吹く風に急に涼気が感じられ、時折見かける赤とんぼの色が、紅に近くなるように深くなってゆく。

その甲子園で熱戦が繰り広げられている間、我がラガーたちの多くは長野県、菅平高原で合宿を張る。ラグビー界の甲子園である花園を目指す、有名無名を問わない全国からの夥しい数の高校。伝統的に山梨県の山中湖で合宿を続けている慶應義塾大学、20年少し前から北海道の北見に合宿所を構えた明治大学を除く、東北、関東、中部、関西にあるほとんどの大学。

そして、トップ・リーグ所属から、気ままな草ラグビーを旨とするチームまでの社会人、あるいはクラブチーム。ジャージ姿が可愛らしい幼稚園児から、いっぱしのサイン・プレーをこなす中学生までを擁するラグビー・スクールの面々。果ては日本代表にいたるまでの、あらゆるレベルのチームが菅平で猛練習を行なう。

いくつかの全国大会、毎日のように組まれる練習試合、選手のみならず、その家族やラグビー・フリークたちも集結して、菅平は(敢えて紋切り型の表現を恐れずに言えば)ひと夏を通じてまさに日本ラグビーのメッカと化すのだ。

菅平の夏=ラグビーの図式が確立されたそもそもの発端は、1931年(昭和6年)に遡る。当時の上田丸子電鉄の専務取締役が、法政大学のラグビー部長に、「菅平にホテルを建設したので合宿場所として使用してもらえないか」という誘いかけをした。それに応じて同校ラグビー部員40名が8月中旬に合宿を行なったのが始まりらしい。

翌1932年(昭和7年)には早稲田大学もこの地に合宿所を構え、いまや伝統となった苛酷な練習が開始されるのである。この合宿中に考案されたというバックスのサイン・プレー「カンペイ」(菅平を音読みしたもの)は、早稲田大学のみならず、日本代表チームにも採用され、国際試合で大型の外国人選手を面白いほど翻弄させた必殺の技となった。

冬のスキー・シーズンにはそこそこの集客力を持っていた菅平が、シーズン・オフの夏季に何とか人を呼べないものかとの狙いは成功し、その後文部省を始め、官民のいくつかの宿泊施設が作られていくことになる。さらに、戦後は各大学の要請でホテルが競って専用グラウンドを造営するようになり、徐々に今の菅平の形が整ってきたようだ。

今の話に戻そう。レベルの違いはあっても、どのチームも菅平合宿では猛練習を行なう。みんなで和気藹々とラグビーを楽しむのが身上の私の所属しているオヤジ・チームも、菅平では目の色が変わる。少しでもタックルが甘いなどの、緩慢なプレーをすると、方々から怒号が飛び交う。「気合い入れてかんか!」「やる気ねえなら、今すぐ帰れ!」「そんなんだったらラグビー止めちまえ!」呼吸は苦しいけれど、顎を上げることさえ憚られる。

オヤジたちさえこうなのだから、高校、大学、社会人レベルの練習は、もう掛け値なしにキツい。彼らは顔を見ているだけでそれがわかる。たとえば、私の知り合いの、この間まで中学生だった高校の1年坊がいた。菅平で見かけた1週間の予定の合宿に入りたてのころは、緊張気味ながらも、どこかまだぼんやりとしたあどけなさが色濃く残っていた。

私たちは1週間も滞在できないので山を下り、東京に帰っていたが、合宿を終えた直後のその1年坊に会う機会があった。一瞬別人かと見間違うほど、彼の顔は変わっていた。色が真っ黒になっていたのは当然だが、頬の余分な肉はそげ落ち、眼光は鋭い。有り体に言えば、男の顔になっていたのだ。いい顔になっていた。

彼らは、菅平でひとまわりも、ふたまわりも大きくなっていくのだ。何回も書くが、練習はキツい。それも理にかなった練習よりも、どう考えても理不尽と思われる練習の方が多いのだ。監督やコーチは鬼だし、先輩は鬼以上に恐い存在だ。先輩たちの、練習後の練習よりもっと理不尽な命令にも背けない。

それでも彼らは逃げないで(逃げてしまう者もいるようだが)黙々と菅平に耐える。だから、大きくなるのだ。一時そんな1年坊たちにとても流行した菅平オリジナルのTシャツがあった。それは背中に大きくこう書かれている。「二度とここへは来るもんか!」

その話の後書くのも恐縮だが、私たちオヤジ・チームは練習の後は、とにかく飲む。現役の連中との一番の違いはここにあるのだろう。ビールを旨く飲むために、ただそれだけのために、練習に精を出す者がほとんどだ。バーベキューで飲み、部屋に戻って「反省会」で飲み、外に繰り出して店で飲み、再び宿に戻って「最終反省会」で飲む。

最初は20人を越える大宴会が、二次、三次と時間の経過とともに少しずつ脱落者(正確に言えば次の日の練習に備えて正しく睡眠をとる者)が出て、「最終反省会」は明日を考えぬ酔っ払い数人ということになる。私はいつもそこに残った。そして翌朝、お約束の二日酔いの重い頭を抱えながら、練習ジャージに腕を通すことになる。

私は、店を始めてから菅平に行けなくなってしまった。毎週日曜日の練習にも何年も顔を出していないので、合宿だけ参加というのはとてもおこがましくてできないが。それでも仲間たちは「合宿だけでも顔を出したら」と誘ってくれる。うれしいことだ。

毎年、菅平で買うのを楽しみにしていた、その夏オリジナルのTシャツやジャージ(半袖だからラガシャツと言った方が当たっているか)。私の持っている一番新しいTシャツが、背中に「BEST PAFORMANCE SUGADAIRA 1999」とある。

もう6年も菅平の風に当たっていないんだなあと考えると、無性に寂しくなる。青々とした芝の上でセービングの練習がしたいなあと思う。これも夏の終わりの感傷なのだろうか。

 

 

第58回:嗚呼、巨人軍