坂本由起子
(さかもと・ゆきこ)

マーケティングの仕事に携わったあと結婚退社。その後数年間の海外生活を経験。地球をゴミだらけにしないためにも、自分にとって価値のあるものを探し出したいと日々願う主婦。東京在住。

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第1回:長く、いつまでも。トースターの話

春は引越しのシーズンらしい。春とは関係なく私は17回も引越しを経験している。ふと思った。今までいったいどれだけものを捨ててきたのだろう…。とりあえずその場しのぎで買ったものは次の引越で処分することが多かった気がする。新しいものを手に入れる喜びの方が大きくて、捨てる悲しみなんて感じなかったのかもしれない。私は今、ずっと使っていたいと思えるものをもっているのだろうか?

5年ほど前、アメリカで生活することになった我が家は、日本から必要最低限のものしか持っていかなかった。ただでさえ広いアメリカのアパートメントの部屋がよりいっそう広く見えた。もしゴルフが好きだったらパターの練習でもやっていたかもしれない。 ものがないというのは今までの生活にリセットボタンを押したような感じで、新しい暮らしのためにこれからどんなものを揃えていこうかという楽しみがある。だからこそものを買うことにとても慎重になっていた。

ある年の夏、当時サンフランシスコに住んでいた私たちは休暇を使い、車でオレゴンコーストを旅したことがあった。日も傾きはじめて、さて今夜はどこに泊まろうかと相談をしている時、海沿いの崖にぽつんと建っているB&B(ベッド&ブレックファースト:一泊朝食付きの宿)を見つけた。

翌日、朝食が用意されたダイニングルームに入ると、すでに2組の宿泊客がテーブルについていた。のんびり旅をしているという老夫婦と、IT企業で働いているいかにもアメリカ人という感じの夫婦。その中にいる私たち夫婦は、場違いな感じがしてなんだか落ちつかなかった。こんな場所に日本人というのは珍しかったらしい。さっそく老夫婦が話しかけてきた。実際の年よりも若く見える私たちは、新婚旅行をしていると思われているのがおかしかった。

ひと通りの挨拶をかわした後、この老夫婦の奥さんは、自分はポーランドからの移民なのだと教えてくれた。そして「新婚」の私たちにこんな話をしてくれた。 「私の母国ではね、夫婦はトースターのように、というのが理想とされているわ」 「トースター? あのパンを焼く?」 「そう。毎日使っていると、ある日壊れるかもしれない。でも気に入って手に入れた物だから、壊れても直してまた大事に使う。そうやって長いことつき合った物にこそ価値があると考えるのよ。だから「トースターのような夫婦」なんて言葉は誉め言葉に値するのよ。壊れたとか、古くなったからといって買い替えるこの国の人たちにはわかりにくいことみたいね」

彼女はそう言いながらちょっとだけもうひと組の夫婦の方を見た。彼らにはどうやらこちらの話は聞こえていないみたいだった。彼らはバケーション中だというのに朝からラップトップに向かいながら仕事の電話に夢中なっていて、美しい景色もおいしそうな朝食も、その目には映っていない感じだった。その頃のアメリカは、ネットバブルの好景気で消費が拡大していた。80年代の日本も多分こんな感じだったのかもしれない。悲しいことに、自分が当時買ったものは、今ほとんど手元には残っていない。

朝食をすませて、互いに別れの挨拶をすると老父婦は南へ向かい、私たちは北へ向かった。カーブが続く海岸線の美しい道を走りながら、私は彼らとのひとときを思い出していた。私たちに熱心にトースターの話をする奥さんの傍らで、ただ黙ってにこやかに微笑む旦那さんも印象的だった。

「豊かさ」について考えていた。街はもので溢れていて、持っていなければならないという脅迫観念にも似た錯覚を起こすことがある。けれど自分が欲しいと思うものは案外少ないのかもしれない。少しずつでもいいから大事にしたいものが増えるような暮らしがしたいなと思う。そういえばあの老夫婦は幸せそうな顔をしていた。きっと大事なものに囲まれて暮らしているのだろう。

 

→ 第2回:モチベーションアップのための掃除機


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