第77回:ヒッピー・キャロルのこと
ゴメスさんの4階建てアパート、崖下が洞窟状になっている
私がイビサで借りて住んでいたゴメスさんのワンルーム・スタジオアパートは、高さ20~30メートルほどの崖の上に建っていた。その崖の下は大きく口を開けた洞穴状になっており、時折大きな潮、ウネリが打ち寄せると、洞窟が共鳴箱になって、ドーン、グワーンと低く大きな音が建物全体に響くことがあった。2階のテラスからでも、まるで船に乗っているように海が眺められるのだった。
4階建てのアパートの、私はその2階、ギュンターが3階、ゴメスさんは4階に住んでいた。 1階にはキャロルというアメリカ人のヒッピー娘が住んでいた。
キャロルはヨーロッパ、インドを旅し、その後、アムステルダムに長いこと住んでいたと語ったことがあるが、その間どうやって食べていたのかは知らない。なんでもアムステルダムでドラッグやコカインに溺れ、このままではコカイン漬けで廃人になってしまう、ドラッグから抜けるために、そんなモノが手に入りにくいところ、気候が良くて物価が安いところ……というのでイビサに流れてきたということだった。
フランコ独裁の時代、イビサはスペイン中央政権から離れた、一種の共和国的な存在だったにしろ、ハードな麻薬には厳しかった。ソフトなマリファナだけは手軽に手に入れることができたが…。
キャロルは私やギュンターが声を掛けると、およそ気軽にどこにでも付いてきた。『カサ・デ・バンブー』のオープニングパーティー、他のレストランやバーのシーズン幕開け店開きパーティ、ソフトボールに、そして朝、私がひと泳ぎするため、通りがかりに、テラスで日光浴をしているキャロルに一緒に泳がないかと誘うと、2回に一度は付いてきて、というか一緒に200メートルほど沖にある岩まで泳いだものだ。彼女は私より余ほど達者な泳ぎ手だった。ヤクから抜けるには、太陽の下で体を動かしたり、泳ぐのが一番だ…と言っていた。
当時のイビサ旧市街のブティック
※写真クリックでヒッピー・マーケットの店内(参考)
イビサで彼女の仕事は針子というのだろうか、ブティックからの注文でその年に流行りそうなファッション衣料を縫製することだった。出来高制だから、相当長い時間ミシンに向かっていた。他の空いた時間に、自作の衣料をブティックに売り歩いていた。キャロルの作る衣料はインド、バリ島風の緩やかなモンペスタイルや甚平のようなのヒッピー風のものだった。
私のようなシロウトから見ても、問題は支払いであることは明白なのだが、ブティック側は仕事は依頼してくるが、支払いはシーズンの終わり、その衣料品が売れた後の何ヵ月先に…と当然言ってくる。キャロル自作の衣料も、どこのブティックでも大歓迎で置いてくれるのだが、支払いはそれらが売れた時、シーズンの終わりになってしまうのだ。それでも、本当にシーズン終わりに支払ってくれるならまだ良いのだが、そのままブティックが閉鎖し、オーナーも島から消えてしまうことがママあるのだった。
キャロルは天から商売人ではなく、手先の器用なお人好しのヒッピー崩れだった。それでも、夜遅くマーティンのバー『タベルナ』やフランス人のたまり場だった『ラ・フィンカ』で出会うと、「今日、お金が入ったから、私がおごるわね…」と気の良いところをみせるのだった。
キャロルが階下に住んでいた間、マリファナの香りが漂ってくることはあったが、ハードなドラッグは日常的にやっていなかったと思う。だが、一、二度アムステルダム時代の“友人”が来て逗留する時には乱れた。アムスからの“友人”がドラッグを持ち込んでくるのだろう、すっかりラリッた状態で『カサ・デ・バンブー』にその友人とやってきて腰を据えるのだった。そして、ドラッグとアルコールという最悪のコンビネーションが生む醜態を晒すのだった。そんな例外的な期間はあったにしろ、普段はとても静かなよき隣人だった。
キャロルは細身ではあったが、裸になると腰がバーンと張った頑丈な体躯の持ち主だった。ところが、彼女が連れてきたフランス人のボーイフレンド、ミシェルは小柄、痩せ、その上太陽にあたるのも、海に入るのも嫌いという陰性植物のような男だった。従って、肌は抜けるほど真っ白で、懸命に肌を焼くことに余念のないキャロルと好対照をなしていた。
ミシェルもヒッピーの延長にある生き方をしていた。彼は街頭で売るテキヤから一歩進んで、シルクスクリーンでプリントした絵を会社、銀行、企業に持ち込み、会社員が昼食を取るような休憩室に置き、自由に見てもらい、2、3日後にもう一度、そこへ出向き、プリント画をお買い上げ頂くというやり方で、ヨーロッパ中を回っていた。
シルクスクリーンは同じものを何枚でもプリントできるから、原画のバラエティーさえ豊富に持っていれば、後は用紙代だけなので、「ヒジョーに儲かるゾ!」と言い、私に日本に帰ってミシェル方式で仕事をするべきだと勧めるのだった。
ミシェルが使う紙は厚手の、一見、手漉きで高価そうなもので、それにリトグラフでやるように、鉛筆で何分の何というように250枚刷ったうちの、何番目と数字を入れ、おまけにサインまでしているのだった。シルクスクリーンだから、そんな番号、サインなどは無意味なのだが、これがまたウケるし、それが肝心なのだとノタマウのだった。
キャロルとミシェルはとても上手くいっているようだった。菜食主義のミシェルに合せ、キャロルも肉食を止めた。夕暮れ時に二人並んで、日陰のリクライナーに座り、コニャックを飲みながらマリファナを回している光景がよく見受けられた。ミシェルが自分より大柄なキャロルをいたわるようにエスコートしながら旧市街を歩いているのを何度か見かけた。
恐らくキャロルは針子、ファッションメーカーとしてイビサでの生活が行き詰っていたのだろう、ミシェルに諭されるように、彼のシルクスクリーン行商の旅に同行したのだった。
春先、イビサに戻ったら、キャロルは引越していて、階下が空になっていた。ギュンターはいかにも内情を知っているかのように、当時少し流行っていた歌にたとえ“two drifters off to the world”(二人の流れ者は世界の果てへと旅立った)と捩った。
その同じ年の夏頃だったと思う。宛先にイビサ、『カサ・デ・バンブー』とだけ書かれた手紙が舞い込んできた。当時、イビサの郵便事情は非常に悪く、届く確率30%と言われていた。郵便局側にも言い分はあり、1年のうち数ヵ月しかいない外国人の家にどうやって配達すれば良いのだ…ということだった。『カサ・デ・バンブー』に郵便局で働くカップルが常連として来ていて、合気道仲間にも郵便局員がいたりで、東洋の切手を貼った、配達先の分からない郵便物がたくさん私の元に届くようになっていた。そんな中にキャロルがアメリカから送ってくれた手紙があったのだった。
それは、一種悲痛なものだった。ミシェルとのシルクスクリーン行商はうまくいっていた、二人はアメリカに渡り、中小都市を回った、毎週違った町を訪れ、モーテル、ホテルを泊まり歩く生活には、すぐに疲れ果ててしまった。レストラン、カフェテリアでの外食にも飽きて、漂泊の旅に何の感動も沸かなくなってしまった。感動がなくなり、そんな状況でミシェルへの愛情、感情もなくなってしまい、別れ、今故郷のサン・ディエゴに帰ってきた。そして、イビサで泳ぎ、夜に旧市街を歩いたこと、貴方たちのことを思うと懐かしさで涙が出てくる。アリストは元気か? 私はイビサを去るべきではなかった、住み続けるべきだったと、イビサへの郷愁が悲痛なまでに高まった内容だった。
私も後年、イビサを離れてから、イビサへの望郷の念が強烈に残り、キャロルの感情が少し分かるような気がするのだ。だが、キャロルの手紙を受け取った時、それならすぐにイビサに戻ってくれば良いのに…としか気が回らず、そんな返事を書き送ってしまった。
青春の一時期をこの島で過ごした者は、一生イビサを心のどこかに持ち歩くことになる。今だから分かるのだが、私がもう一度イビサに戻り、そこで暮らそうとしなかったのは、青春は過ぎ去るもので、時計の針を逆回しできないと気づいたからだった。
イビサで過ごした十余年にノスタルジアを抱きつつ、こうして思い起こすことができる土地があるだけ、私は幸運な一時期を持ったと思うのだ。
キャロルがその後どんな人生を歩んだか知らない。キャロルも悲痛な郷愁の時期を経て、イビサ時代の思い出を昇華し、温かみのある郷愁の地として心に残っているのだろうか、 そう信じたい。
イビサ港の灯台から城壁を望む
-…つづく
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