第36回:バッファローの絶滅と金鉱発見
生革の集散地は、当時、バッファロー・シティーと呼ばれていた町で、現在のカンサス州のダッジシティーだった。鉄道がバッファロー・シティーまで来て、初めの3ヵ月で4万3,000枚の生革が東部に送られている。次の3年間でバッファロー・シティーから送り出された生革は137万8,359枚という記録が残っている。これだけでも莫大な数字だが、これは一田舎町、ダッジシティーから送り出された数字で、数あるほかの町から積み出された生革の総数は天文学的なものだったろう。
西部劇で名を馳せたバッド・マスターソン、ワイアット・アープ、バッファロー・ビルなどは、バッファロー狩で大儲けをした口だ。毛皮は東部に持って行きさえすれば、いくらでも飛ぶように売れた。鉄道が毛皮の輸送を可能にした。

ダッジシティーに積み上げられたバッファローの毛皮の山(1878年)

肥料用に積み重なったアメリカンバイソンの頭骨(1870年代中期)
高性能ライフルを使い出す以前に一体何千万頭のバッファーローが北米大陸にいたのだろうか?
バッファローは驚異的な速さで絶滅した。
私が育った札幌の植物園(北大付属)にバッファローの剥製がその当時展示されていて、その大きさと不気味さに子供の私は圧倒され、とても怖かったのを覚えている。
アメリカで暮らし始め、御多分に漏れず、アメリカ国立公園巡りをし、イエローストーン国立公園で初めて本物のバッファーローを間近に見ることができた。こんな巨体を維持するのに、一日どれだけの草が必要だったのだろうか。
一旦絶滅した種をカナダから貰い受け、繁殖に成功させ、今ではユタ州の国有林の高原、ヘンリー連山でも野生のバッファローを見ることができる。

ヘイゲンバイソン(Plains bison)
一つの種が地球上から消え去るのは大きな悲劇だが、それに頼って生きているインディアンたちにとって、生存をかけた文字通りの死活問題だった。無限に生存してると思っていたバッファローが白人のライフルの前に10年そこそこの間に消えていなくなったのだ。
バッファローを生活源にしていたインディアンは飢えた。当然、バッファローを絶滅に追いやった白人入植者を憎んだ。インディアンにとって、かつて自分たちが自由に駆け回っていた大平原に侵入してきた入植開拓民もバッファロー・ハンターも同じ白人だ。食料源を奪った白人どもを襲い、奪い返せとなるのは当然の帰結だったのだろう。俗に言う、インディアン・バッフォロー戦争時代になるのだった。
コロンブスがやってくる前に、北米大陸にすべての部族を合わせると推定だが総計で300万人のインディアンがいたと言われている。それが、現在25万人まで激減している。平原のシャイアン族は1780年頃、北と南に部族集団が別れた時総計で3,500人程度しかいなくなっていた。
北部に残ったシャイアン族は、今のワイオミング州、ダコタ州、モンタナ州に散らばった。一方、南下したグループは、ラコタ族、アラパホ族とともにグレートプレーンのプラット川とアーカンソー川の間、今のコロラド州とカンサス州を占めた。彼らは食料、生活を全面的にバッファローに頼っていた。
インディアンたちが、白人侵略前に平和的、理想的な生活を営んでいたわけではない。部族間同士の戦いがあり、残酷な殺し合いがあった。飢えた時には、狩猟インディアンは農耕インディアンが蓄えていた食料を奪うために襲撃もした。だが、そんな抗争は、相手部族を絶滅に追いやるものではなかった。
白人がやって来てから、様相はガラリと変わった。強制的に部族を移動させ、特定の地域に押し込め、そこで飢え、白人が持ち込んだ病原で死ぬに任せた。とりわけ、オレゴントレールで西に向かう開拓移民団がもたらしたコレラは、病原菌に抵抗力のないインディアンに異常な速さで感染し、広がり、死んでいった。
デンバー郊外の金鉱のことは『サンドクリーク編』で書いたが、とりわけ、1849年に北カリフォルニアで金鉱が発見され、黄金狂時代を迎えてからのコレラ感染はひどかった。
現在、アメリカのプロ・バスケットボールでデンバーのチームは“Denver Nuggets(デンバーの金塊)”であり、サンフランシスコのアメフトチームは1849年のゴールドラッシュの49をとって、“フォティーナイナーズ”と呼んでいる。金鉱の発見、そして金の発掘は、西部開拓史を飾るエポックになったのだ。だが、金は、世界の民族史の中でも珍しくそれに固執しない北米インディアンを死地に追い込むことになるのだった。
-…つづく
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