第76回:Malaysia (1)
更新日2008/03/13
国境を越えると、そこにはこれまでに通過してきたどの国よりもずっと経済的に豊かな国であることが一目で見てとれる光景が広がっていた。凹凸のないスムースなアスファルトで整備された一直線に伸びる高速道路の脇には、一定の間隔でオレンジ色の灯りを燈す街灯が立ち並び、その道路の上を走る車はどれも新車か他の東南アジアでよく見かけるような日本からの払い下げ中古車というのではないまだそれほど型落ちになっていない車が多かった。
その光景は適度な空調で調整された心地よいバスのシートでうたた寝している時に、「ここはアメリカの田舎町なのですよ」と言われれば、なるほどそうなのかも知れないなと思いそうになるほどすでに先進国のそれそのものであった。
よく南北問題と言われるが、地球儀を眺めてみても、アメリカ合衆国地図を見渡してみても、それがインド亜大陸であっても、北の方が南の方よりも工業化が進み豊かである例は不思議とよくあることである。その理由の確かな点は知らないが、太陽が燦々と降り注ぎ、裏庭にはマンゴーの実が年中なるような豊かな土地では、もちろん人はその幸せを思いっきり楽しんでしまうのも無理はない。
それに対して自分が普段暮らしているシカゴのように、冬はマイナス20度というような土地では、しっかりした家を建て、冬に備えて資金も暖房設備も整えないことには、その長く厳しい冬を越すことができないのだから、人はどうしても先を見て蟻のように働く生活スタイルを築くのが自然の流れであるというのはあるかもしれない。
もちろん、それだけが理由ではなく、ただ単に地理的に他の文明と相互作用を及ぼしやすい位置にあるからというのだってあるだろう。まあしかし、その「南北問題」という概念にうまくあてはまらないのが東南アジアの経済分布図であって、それは中国南部でもベトナムでもタイでもミャンマーでも、そしてここマレー半島でも当てはまる。
国境を越えたバスはそのまま数時間走り続け、その間車窓から眺めることのできた近代的な光景とはまたちょっと違った、東南アジアらしい新旧入り混じった混沌としたカオスのような頻雑な街並みの中へと入っていた。かつては西方のヨーロッパやインドと中国や日本を結ぶ重要な拠点として大いに栄えたペナン島は、近代的なビルが建つエリアとは別に往時を偲ばせる雨垢で薄黒くくすんだ古い家々が立ち並ぶ興味深い街であった。夜中に到着したバスを降り、頻雑ではあるがタイのバンコクの喧騒に比べると遥かに静かな、あるいは空虚感が漂う街並みを歩き、薄暗いゲストハウスの部屋に床をとった。
街を歩いてみるとタイではほとんど見かけることのなかった彫りの深いインド人たちが多く目に付き、それとは別に彼らインド人がこの土地にやってくる前から暮らしている丸っこい目と顔つきをしたマレー人女性のイスラム風スカーフに、新たな土地へ足を踏み入れた実感を確かなものにした。このマレーシアという国はかつて海上貿易の交差点であったため、今でもマレー人、インド人、華僑という顔も文化も違う人々が同じ土地に暮らしているという非常に興味深い国である。そのおかげで街をぐるっと一回りしてみれば、マレー人の集まるモスク、インド人の集まるヒンズー教寺院、華僑の集まる関帝廟などを目にすることができ、それぞれの民族がある地域にはナシゴレン、カレー、ごま油などの様々な食欲を擽る香りが漂っていた。
マレーシアという国は物価もそれほど高くなく、それでいて近代的な設備は整備されており、また異文化体験もできると非常に旅をしていて楽しい国である。ただそうは言っても、お隣の国タイに比べると観光客の数はぐっと少なく、また街に溢れる活気という意味でもどこか倦怠感の漂う虚無があった。
ペナンでは観光地を少し廻りながら数日を過ごし、次の目的地であるパンコール島へ向かった。ここはテノール歌手のパバロッティが愛した場所として知られる静かな島である。トロピカルな雰囲気を持ちながらも、タイやカリブの島々のようなケバケバしさはなく、あくまで落ち着いた時間が流れている。観光客の姿も疎らな熱帯に似つかわしくないしっとりとした心地よさを持つ島である。私もこの島を初めて訪れて以来、その魅力に惹かれすでに3回も島を訪れている。
これといって見所もなく、また海もそれほど透明度が高いというわけではないのだが、それでもこの島には何かしら人を魅了する力を持っている。イスラム教徒のマレー人が大半のこの島には、野生の猿や艶やかな色の羽を持つオオハシがごく普通にその辺りにいるようなのどかな世界が広がっており、夕刻に島の西海岸からマレー海峡に沈む太陽は、私がこれまでに見た中でも3本の指に入る壮大な優雅さを持っている。
観光客の少ないこの島では、浜辺で漁をする猟師と世間話をしたり、村の人々が採れたてのシーフードを囲んで盛り上がるバーベキューに参加したりして、またいつかきっとこの島に戻ってきたいと思わせてくれる充実した時間を過ごした。
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