第367回:室井滋さんの声 - 黒部峡谷鉄道 2 -
宇奈月駅前は観光バス用の大きな駐車場があって、ナンバープレートは関東、東北、関西と様々だ。地元ナンバーもある。富山空港やホテルからやってくるようだ。行楽シーズンの祝日ということもあって団体客が多い。高速道路を大幅に割り引く政策のせいで、鉄道会社は元気がないけれど、黒部峡谷鉄道は大混雑である。もっとも、黒部峡谷鉄道は移動手段というより観光地のアトラクション的な意味合いが強い。
ホームから機関車を間近に見る
私はチケットを受け取って、宇奈月駅の改札に並んだ。改札口は列車ごとに設けられている。いくつも長蛇の列があったけど、それは私の列車より前に発車する列車の列だった。並びつつ周囲を見渡す。まるで初めて見る光景だけど、私にとって黒部峡谷鉄道は二度目の乗車だ。一度目は小学生の頃だったと思う。少しずつ記憶をたどる。乗った記憶か、アルバムを見た記憶か怪しい。しかし、はっきりと蘇った記憶がある。蒸し暑さだった。ガラス張りの客車に押し込められて、窮屈な思いをした。窓のそばに座っていて、太陽の光が照りつけた。なぜ窓が開かなかったのだろう。開けてもらえなかったかもしれない。
ダム工事や保線用の貨車も多い
退屈で、改札口の係員氏に話しかける。
「もう30年も前に乗ったことがあるんですよ。たぶんあなたが生まれる前」
「そうなんですか」
「あの頃とこの駅は変わらないかな」
「いえ、ここは20年くらい前に建て替えたようですよ」
「ああそうか。車両はどうですか。温室みたいに暑い列車だったと思うんだけど」
「うーん、車両は古いものもあります。もっとも古いもので大正時代からの客車が現役といいますから」
トロッコ客車には4種類あって料金が異なる。吹きさらしは運賃のみ、屋根と窓付きの特別車は360円増し、定員が少なくゆったりしたリラックスタイプが520円増し、屋根まで窓になっているパノラマ客車が630円増し。温室のような経験をした客車はどれだろう。パノラマ客車は1両しかなく、リラックスタイプはあの頃はなかった気がする。
乗客の期待を集めて列車が入線
改札が開き、階段を降りてホームへ。チケットは車両が指定されている。指定された場所で待っていると列車がホームに入ってきた。オレンジ色の機関車が2台。その後ろに白い客車がズラリと並ぶ。車体が小さいから、ミニチュアの幹線鉄道のようである。機関車は角張った無骨なスタイルで、屋根や運転台窓は鉄板を取り付けたようで、小さな箱をいくつもくっつけている。実用本位で機器を足したらこうなった、という姿だ。顔の大きさに比べてヘッドライトが大きく、ギョロ目である。
少し前かがみになって白い車両に乗り込んだ。奥へと進まなければ他の人が乗れない。私は後ろまで屈んだまま進んだ。窮屈ではあるけれど、座ってしまえば気にならない。ワンボックスタイプの乗用車の後部座席と同じか、すこし狭い程度であった。車内は狭いからと、着替えなどの荷物はコインロッカーに入れてきたけれど、それでも手荷物の鞄の行き場がない。カメラだけ持ってくればよかったと後悔した。
ゆったりとした? 車内
リラックス客車は転換クロスシートで、リラックスといえども背もたれは傾かない。吹きさらしと屋根付きは1列4席のところ、1列3席となっている。ひとり分の隙間が空いているからリラックスである。発想が戦後復興的だと思う。進行方向右の窓際に座れて、ちょっと落ち着く。
発車を待つ間が賑やかである。まず土産売りが来る。ホームから声をかけるだけではなくて、わざわざ車内に一歩踏み込む。しかし、あまり売れていない。誰もが出発したあとの景色を期待しているし、こんな狭いところで、荷物を増やそうという人はいない。
背後の連結面をのぞく
次にカメラマンがやってくる。「のちほどお求めいただけます、撮影は無料です」と言いながら、やはり車内に踏み込んで撮っていく。不倫旅行のカップルなら心中穏やかでないだろうと思う。無料で撮ると調子のいいことを言って、列車が転落でもしようものなら、格好の報道写真になりそうだとも思う。記者根性が頭をもたげる。悪い癖である。
売店の掛け声が賑やか
そんな騒ぎの中で、車内放送が始まっている。あれ、聞いたことがあるなと思ったら、女優の室井滋さんである。すっかり忘れていたけれど、私は室井さんが起用されたニュースを書いていた。ああそうか。これか、と思った。走行中だけではなく、発車前から彼女の声で、乗車中の注意なども含めて、案内放送のすべてを担当している。もっとじっくり聞いてみたい。しかし車内も車外も落ち着かない。
カメラマンが巡回する
リラックス客車は満席で、私の前には私より10くらい若い女性と、その母親らしき人が座った。母娘ふたり連れらしい。私の左隣はたぶん老夫婦だった。たぶん、と記憶が曖昧な理由は、私の直前に座った娘さんが、なかなかの美人ではないかと気になっていたからだ。全員が前向きに座っているから、ご尊顔を拝見できない。でも、彼女が窓の外を見ようとすると横顔が見える。さすがに後ろは向いてくれない。
景色の他にちょっとした楽しみができた。声をかけるきっかけがあったらいいなと、この先の道行きに期待した。各車両満席。誰もがいろんな意味でワクワクしている。その雑多な思いを引き締めるように汽笛が鳴って、トロッコ列車が動き出した。室井滋さんがなにかしゃべっている。車内は静かで、ホームの雑踏も遠ざかった。しかし、走り出したら風と走行音に掻き消された。私の心は別のところにある。
景色の他にも気になる……
-…つづく
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