第721回:上書きされた新線 - 可部線 可部~あき亀山 -
雨が強くなった。暗い車窓が滲む。景色に民家が増えてくる。列車が減速して、もうすぐ可部駅に到着だ。そこはかつて訪れたはずだった。けれど、見違えるほど変わった。進行方向左手に新しいプラットホームがあり、見上げれば小さな塔がある。新しい駅舎かと思ったけれど、塔を支える下の建物に壁がない。屋根付きの通路で、その先のもうひとつ小さな塔までが広いバスターミナルになっている。

可部駅の西口にバスターミナルができていた
思わず立ち上がり、車窓右手の窓に張り付いた。こちらも新しいプラットホームが整備されている。しかしその向こうに行き止まり式のプラットホームがある。あれが旧駅の痕跡だ。行き止まりの先に駅舎があった。微かに記憶に残る姿である。15年前の私は古い電車で行き止まり式のプラットホームに到着し、三段峡行きのディーゼルカーに乗り継いだ。そこからが廃止予定区間で、名残乗車する人たちで賑わっていた。あのときは晴天で、太田川沿いの景色が見事だった。山の色は単一ではなく、意外と複雑に混じり合っていると思った。
雨だれで車窓が見づらいこともあり、ぼんやりと思い出に浸っていたら、対向列車が到着した。こちらと同じ新型車両で、行先は呉線直通の広行きだ。広島行きと広行きでややこしいけれど、枝分かれするわけではないから問題ないかと思う。それより、可部で列車交換という風景が新線だ。15年前は可部を境に電化区間と非電化区間が分かれており、可部駅でそれぞれの列車が折り返したと記憶している。そういえば、可部駅の終点時代を私は知らない。

新線区間の始まりと自転車の通学生たち
可部線は1909(明治42)年に民間の鉄道として発足した。当初は横川~祇園間の軌道線だ。非電化で軌間は762mm。軽便鉄道のような路線だ。横川駅が山陽本線より離れた場所にある理由はこれだろう。2年後に可部駅まで延伸し、19年後の1929(昭和4)年までに全線を改軌した。当時の経営は広島電機で、電力の安定供給先として電化路線となった。1931(昭和6)年に分社化され広浜鉄道の運営となる。広浜の浜は島根県の浜田だ。民間による陰陽連絡鉄道の構想があった。そこに注目されたか、1936(昭和11)年に国有化され可部線となった。
国有化後は広浜鉄道の延伸工事を引き継ぎ、国有化の同年に安芸飯室まで延伸した。戦後も国鉄は山陰の浜田を目指し、まずは1946(昭和21)年に布駅、1954(昭和29)年に加計駅まで延伸。しかし、せっかく作った延伸区間は国鉄合理化で赤字を指摘され、1968(昭和43)年に廃止を勧告される。それでも建設工事は止まらず、1969年に加計から三段峡まで延伸した。さらに浜田を目指して1974(昭和49)年に今福線として工事を開始。国鉄の政策の矛盾が露呈した。結果として1980(昭和55)年に今福線の工事は中止となり、可部~三段峡間の廃止も取り沙汰される。
1998(平成10)年にJR西日本は可部~三段峡間の廃止を表明した。廃止運動や増発実験などが行われたけれど、2003(平成15)年11月末の運行を最後に廃止された。私は慌てて廃止直前に乗りに行った。その時にも感じたけれど、可部駅から河戸駅までは民家も多かった。廃止反対運動とは別に、沿線からも可部~河戸間の電化増発を望む声があり、住民運動が起きていた。廃止に当たり、JR西日本と広島市は該当区間に需要があれば電化延伸する。ただし地元負担という約束があったという。
廃止後も運動は継続した。その後、可部線活性化計画は国の補助対象となった。手続きに困難が多かったものの、2017(平成29)年3月に開業した。廃止区間の復活ではなく、手続き上は新線建設の許可の形となっている。延伸区間は可部~あき亀山間の1.6kmだ。私の全線完乗ルールでは、廃止区間の復活というなら記録にならない。なにかのついでに乗ってみようかという感覚だ。しかし、新線建設扱いなら乗らねばならぬ。わずか1.6km。面倒だがめでたい。
可部駅を発車するとすぐに踏切を通過した。この踏切が延伸の最大の問題だった。鉄道の新線建設に当たっては、踏切の新設は原則として認められない。法律では「やむを得ない事情がある場合は除く」と逃げ道を作っているけれど、このやむを得ないはめったに認められない。たぶん、国防や防災など、国民の生命財産に関わる場合だけだ。便利にしたいという利己的な事情は認められない。だから新線区間はたいてい地下か高架区間になる。しかし、この延伸区間はもともと鉄道があったところだ。制度上は新線だけど、事実上は廃線復旧だ。その事情を汲んで特認されるまで5年かかった。落とし所として、4ヵ所あった踏切のうち1ヵ所を自動車通行禁止とした。

河戸帆待川駅付近、住宅が多い
踏切を過ぎて、可部街道の下を通り、可部バイパスも潜り抜けると河戸帆待川駅だ。新線区間の唯一の中間駅で、旧河戸駅の手前にある。ここまで線路の両側は民家が建ち並び、農地は無かった。鉄道があって当たり前のような景色である。あらためて可部駅を存廃の境界にした不条理を感じる。当時の関係者は面倒くさがりが多かったのだろう。河戸帆待川で私の車両は8人降りて、乗客は私だけになった。あれほど存続を求めた割りに乗客は少ない気がする。いや、今日は土曜日だ。しかも雨天だ。希少な日かもしれない。

あき亀山駅に到着

私が乗った電車は呉線の広行きとして折り返した
あき亀山駅で私のほかに10人ほど降りた。プレハブ小屋のような簡素な駅舎である。プラットホームの先端まで進みそこに改札を置けばいいのに、左へ折れた通路の先が改札口だ。なんでこんな面倒な作りになったのだろう。改札口は自動改札機で、IC乗車券専用だった。私は岩国からの紙のきっぷを持っている。改札の手前にきっぷ回収箱があったけれど、この時は気づかずに改札を出てしまい、どうしたものかと思いつつ、そのまま歩き出した。

あき亀山駅、機能重視ながら波型屋根が洒落ている
駅前の小さなロータリーに乗用車が何度もやってきて、電車の客を迎え、または降ろしていく。いままでは可部駅まで送迎していただろうから、電車に乗らない家族も助かっているはずだ。あき亀山駅の北側は住宅地で、南側は農地、その先に太田川がある。観光向けの施設はないから、いまきた電車で戻ってもいい。しかし、タレントの久野知美さんがSNSに旧河戸駅の待合所を訪れた写真を上げていた。大雨だけど、せっかく来たからには見に行こう。

線路の延長線上に廃線跡が見えた
しかし、河戸駅の場所がトラップだった。私はてっきり旧駅の場所だと思って、線路伝いに歩いた。しかし一向にそれらしき建物はない。線路沿いの道は片側一車線で細い。しかしクルマの通行は多く、タイヤが跳ねた水で膝から下がズブ濡れだ。どうもおかしいとスマートホンで地図を確認したら、河戸駅はあき亀山駅の北側に移設されていた。まるで民家の私道の片隅のような場所だった。雨の待合所も風情がある。しかしここには列車が来ない。

迷いつつたどり着いた旧河戸駅
元の場所に放置すれば新線というタテマエが崩れてしまう、そのままというわけにはいかなかったかもしれない。有志が引き取って移設したというところか。濡れたベンチのそばに現役時代のきっぷ回収箱があったから、私はそこに岩国からのきっぷを入れた。今日の私の終点はここだ。

帰りは115系電車だった

明日に備え、広島から新下関へ
-…つづく
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