第221回:流行り歌に寄せてNo.33
「野球拳」~昭和29年(1954年)
『野球拳』という言葉の響きには、何かとても恥ずかしく、ドキドキするものがある。今の50歳から60歳にかけての世代の、ことに男性陣には、理解していただけると思う。
何と言っても、1969年(昭和44年)から始まった日本テレビの『コント55号の裏番組をぶっとばせ』の最後の野球拳コーナーを連想してしまうからだ。
いつもは可愛らしく歌っていたり、ドラマを演じていたりする若い女性タレントさんが週替わりで出てきて、坂上二郎さんと派手な音楽で野球拳を繰り広げ、ジャンケンに負けると一枚ずつ着ているものを脱いでいくのである。
当時中学2年生、思春期真っ盛りの私にはもう刺激が強すぎて、ただただ狼狽えていた。同じ頃に大流行していた週刊少年ジャンプの『ハレンチ学園』とともに、我々の蒼いセクシャルな意識を翻弄してしまっていたのである。
ところが、この『野球拳』の歌が、歌謡曲としてその15年前に大変流行し、またこの歌のルーツが、さらにその30年前の大正時代の社会人野球チームにあったということを、今回初めて知った。
「野球拳」 前田伍健:作詞作曲
1.
野球するなら こういう具合にしやしゃんせ
投げたら こう打って 打ったら こう受けて
ランナーになったらエッサッサー
アウト セーフ ヨヨイノヨイ あいこでホイ
(勝負の決まるまでつづく)
ヘボのけ ヘボのけ おかわりこい
2.
踊りするなら こういう具合に 野球拳
投げたら こう打って 打ったら こう受けて
釈迦もエンマもエッサッサー
アウト セーフ ヨヨイノヨイ あいこでホイ
(勝負の決まるまでつづく)
ヘボのけ ヘボのけ おかわりこい
まず、1954年の歌謡曲として大流行した時の話。この頃は、プロ野球観戦が国民の娯楽として定着していた頃で、大変な人気があった。川上哲治、藤村富美男、大下弘、そして金田正一などの時代である。
そんなブームの中、この野球拳は2組と1人の競作となった。『おーい中村君』の若原一郎と『五木の子守唄』の照菊とのデュエット(『野球けん』のタイトル。『とんと節』の久保幸江と『恋のマドロス』の高倉敏とのデュエット。そして『娘ごころは恥ずかしうれし』の青木はるみ(こちらも『野球けん』のタイトル)が鎬を削った。
オリジナルは、上記の前田伍健の作によるものだが、この年の3作はすべて、佐伯孝夫:補作詞 清水保雄:採譜
の下記の内容で歌われている。1番はそのままだが2番以降は歌詞が違うのである。さらに「あいこでホイ ヘボのけ ヘボのけ おかわりこい」の部分はカットされている。
2
お酒のむなら こういう具合に呑ましゃんせ ソラ呑ましゃんせ
さしたら こううけて ソレ うけたなら こう呑んで ハイ
歌えや踊れや エッサッサ タイム プレー ヨヨイノヨイ
3
バッターに立ったならじっくり構えて立たしゃんせ ソラ立たしゃんせ
ボールなら こうよけて ソレ ストライク こう打って ハイ
カーンと飛んだら エッサッサ ファール フェアー ヨヨイノヨイ
4
お酒酔ったなら こういう具合に酔わしゃんせ ソラ酔わしゃんせ
にいさんに こうタッチ ソレ タッチなら こう逃げて ハイ
ホームを目指して エッサッサ アウト セーフ ヨヨイノヨイ
5
ハンサムにラブしたら こういうサインを送りゃんせ ソラ 送りゃんせ
十六 ささげ豆 ソレ 摘む気なら ハゼぬうち ハイ
裏から小松菜 エッサッサ ノー イエス ヨヨイノヨイ
6
占いするなら こういう具合にしやしゃんせ ソラ しやしゃんせ
花びら こう抜いて ソレ 抜いたなら また一つ ハイ
お胸はドキドキ エッサッサ 来ない 来る ヨヨイノヨイ…
さて、最後にオリジナルの由来である。1924年(大正13年)10月、四国の近県実業団野球大会で、松山の伊予鉄道電気野球部は、敵地高松屋島グラウンドに乗り込み、地元の高商クラブと対戦したが、0-6(一説には0-8)で敗れてしまった。
ゲーム終了後、高松の川六旅館で両軍の懇親会が開かれたが、芸所でもある高松のため、宴席の余興においても野球同様、伊予鉄の敗色が濃厚になってきた。そこで、伊予鉄の副監督を務めていた前田伍健(川柳作家であったらしい)が、別室にメンバーを集め作戦会議を開いた。
そこで選手たちに伝えたのが、この『野球拳』。野球の中のいろいろな動きに詞をつけ、振付けし、曲は『元禄花見踊』をアレンジして作った。そして最後は、狐拳で勝敗を決することにした(狐拳とはジャンケンの石、鋏、紙を手で表す変わりに、猟師、狐、床屋を模したジェスチャーをして勝敗を決するもの)。
それを野球のユニフォーム姿のまま宴席で披露したところ、大いに盛り上がり、形勢を完全に挽回したとのことである。
その後、松山の料亭に持ち帰り、野球の「残念会」で披露したところ、地元でも大変な好評を博した。伊予鉄の野球部は遠征のたびにこの芸を披露したため、徐々に普及していったのだという。
本来、負けたら「ヘボのけ ヘボのけ おかわりこい」と言われて、次の人と代わるというのが伊予鉄の野球拳である。負けて一枚ずつ脱いでいくスタイルは、後にお座敷芸から発展していったものだ。
単なるお色気芸として、世間に知らしめてしまったことを後悔した萩本欽一は、2005年(平成17年)に松山市を訪れ、この歌の関係者に謝罪をし、本家の流儀の教えを受けたそうである。
-…つづく
第222回:流行り歌に寄せてNo.34
「この世の花」~昭和30年(1955年)
|