昨日は浜松から東京へ戻って出直したけれど、今日は新所原からさらに西へ。豊橋行きの各駅停車に乗った。さらに乗り継いで名古屋。時刻は18時28分。さすがに暗くなってきた。しかし、暗くなっても楽しい乗り物がある。地下鉄である。地下を走るから昼に乗っても夜に乗っても景色が変わらない。地下鉄とはいえ地上区間を持つ路線もあって、そういう路線は昼間に乗りたいけれど、地下ばかり走る路線は夜でもいい。地下鉄は大都市の乗り物で、地上に降りてもビルや住宅ばかり。清々しい景色など望めない。今夜は宿に入るまで、地下鉄で過ごすと決めた。
名古屋市営地下鉄桜通線。
名古屋都営地下鉄は、環状運転をしている名城線と、東西方向の東山線と鶴舞線、中心部から南下していく桜通線がネットワークを構成する。これに支線格の名港線と上飯田線が加わる。地上区間は東山線の一社駅~藤が丘駅間、鶴舞線の上小田井駅付近だけで、すでに乗車済みである。そのほかの区間も乗り継ぎでいくつか乗っている。今夜は残った路線をすべて乗車して路線図を塗りつぶしていく。ただし、終点で引き返すだけでは味気ないので、地上に出て、少しは町を眺めようと思う。
まずは桜通線で終点の野波を目指す。タウンガイドやシティマップを入手すれば、洒落た喫茶店やボリューム満点の定食屋があるかもしれない。街はゆっくり歩けば歩くほど立ち止まりたくなる。ひとつひとつの駅に寄っていたらきりがない。しかし、ひとつ寄ってみたい駅があった。“御器所”である。この駅は“ごきそ”と読む。漢字を見ると古代の上流階級を思わせるけれど、発音するといやな感じである。ニュータウンには絶対付かない地名だろうと失礼なことを思う。確かに失礼な話で、熱田神宮にて神事用の土器を作ったという由来らしい。地上をのぞいたけれど、門を閉ざした昭和区役所があるだけだった。
御器所駅。
終点の野並駅は静かな街で、大きな本屋と電気屋、99円専門のコンビニがある程度。ランチの幟を立てた店はすでに暗く、昼間に活気づく場所のようだ。案内図によると大きな団地があるらしい。夜更かししないベッドタウンという印象である。私は黙って地下に戻った。
桜通線を引き返し、久屋大通で名城線に乗り換える。名城線はここから金山まで乗ったことがある。そこからさらに名港線にも乗っている。だから残りの区間を乗るために、くるっと一周してみた。終点がないから、ほかに地上に出る場所を探す。電車に揺られながら路線図を眺める。しかし、ピンとくる駅はない。テレビの旅番組では、旅人がぶらりと降りると、地元の人々とのふれあいなど珍しい体験ができる仕掛けになっている。しかしあれはすべて仕込みで、本当に旅に出ればそんなことは期待できない。“総合リハビリセンター”に興味はないし、“名古屋大学”を夜にうろつけば警備員の出番だろう。野球に興味がないから“ナゴヤドーム”も関心がない。降りるきっかけを得られなかった。
名城線を一周する。
ならば、元に戻って久屋大通で降りてみよう、と思った。乗った降りる。私にはそこが起点であり終点だ。そして地上に顔を出せば、やはり暗い。オフィス街のようだが、道路に面した店子はシャッターを下ろしていた。そば屋の類も閉店である。名古屋の人は外食しないのかと思う。やれやれ、ここも徒労か。と振り返ると、なんと、そこにはタワーがそびえていた。タワーのそばには歩道の吊り橋もある。ああ、ここが名古屋の中心だったか、と思った。きっと名古屋の人なら誰でも知っている場所で、普段からあるものに驚く。お上りさんとはこのことだ。
いやいや、東京だってわからんぞ、と思う。東京に住んでいる人は、電車や高速道路から東京タワーを見慣れていて、だいたいどの場所にあるかわかるだろう。しかし、地下鉄大江戸線の赤羽橋を降りてから東京タワーを見れば、こんなところに東京タワーが、と感動するはずだ。予備知識がない方が旅は楽しい。知識がある人にとって当たり前のことを喜べる。何かを体験するときに参考書を先に見る。そんな悪しき習慣は受験社会の弊害だったと思う。勉強だって予習しない方が発見が多くて楽しいに決まってる。いや、それは負け惜しみになってしまうか。
久屋大通で降りてみたら……。
タワーの麓はオープンカフェがあって、トレンディードラマのセットのようだ。こんなところに普段着でうっかり迷い込み、私はちょっと恥ずかしくなった。ティーシャツには今日一日の汗がへばりついている。ここは着飾ってくるべき場所だ。そして、ひとりでうろつく場所でもない。しかし、来てしまったわけだし、高いところにいけるなら上りたい。私はすこしキラキラして、どこか落ち着いた建物に入った。一流ホテルのフロントのようで、ますます気恥ずかしくなる。受付嬢はとても優しくて、地下鉄の一日乗車券を見せると入場券を割り引いてくれた。
時刻はちょうど20時。いい時刻に来たと思った。都市の夜景は夜遅くても早くてもだめだ。早ければ、まだ明かりをともさないビルや看板があるし、遅ければオフィスのフロアは消灯してしまう。しかしいま、名古屋の街は絢爛と光り輝いていた。名古屋駅方向にはJRセントラルタワーとミッドランドスクエアの二大高層ビルがそびえている。ビルに埋もれた観覧車が、辺りに負けじと光を放っている。どこまでも続く光の粒子。中部国際空港開港以来、名古屋経済圏が力をつけてきたという、週刊誌の記事を思い出した。名古屋タワーは東京タワーより低いだろうけれど、だからこそ夜景がよく見える。東京タワーの周辺は意外と暗い。
ビルの谷間の観覧車。
展望デッキを一周して、私は足を止めた。若い男女が語り合っていた。この展望デッキも豆電球で飾られていて、ここにいると光のシャワーを浴びているようだ。そんな景色によく似合うふたりだった。とても親しいようでいて、しかし、なぜか触れあうことはなかった。なんとなく、いい絵だなと思い、私はこっそりカメラを向けた。芸能記者のようにフラッシュを焚く野暮はしない。望遠鏡の台にカメラを固定して、長時間露光でシャッターを切る。手ブレが心配だ。しかし、うまくいけば、夜景にふたりの影が形を作ってくれるだろう。
何枚か撮影したあと、邪魔だとは思いつつ、私は彼らに話しかけた。私はメールアドレスの入った名刺を渡し、うまく撮れたら進呈するから、このアドレスにメールをくれないかと頼んだ。私たち、恋人ではないんですよ、と彼女が言った。友達ですと彼も言う。そうだろうと私も思ったとは言わず、ふたりでここに来た記念にはなるのではないか、とだけ私は言った。長居は無用。これ以上の野暮なまねはしたくない。私はなんとなく満足して、再び地下鉄に乗った。
星空の恋人たち。
このあと、東山線の終点の高畑へ行き、桜通線の終点の中村区役所へ行って、私は名古屋市営地下鉄を踏破した。どちらの駅でも地上に上がってみたけれど、あの煌びやかな夜景とは比べるべくもなかった。私はあのふたりに出会えただけで、なにやら満足というか、白状すると、心の中で勝手に彼らの物語を空想して楽しんだ。そんな私にとって、地下鉄の車窓が見えないことなど、もうどうでも良かった。地上で余計な発見がなくて、むしろ良かった思うほどだった。私は地下鉄で、自分だけの景色を見ていた。しかし現実でない景色だから、もう思い出せない。
東山線。
中村区役所駅で名古屋市営地下鉄を完全踏破。
-…つづく
第286回からの行程図
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