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第5回:ライプツィヒという町 その4

更新日2021/11/25

 

ライプツィヒのニコライ教会がベルリンの壁崩壊に、それに引き続く東西統合に果たした役割は大きい。ドラマチックなベルリンの壁の映像の陰になり、先鞭をつけたライプツィヒのことは忘れられたかのようだ。

中世以前から、教会内部は治外法権に近い特別な所になっていた。たとえ犯罪人がそこへ逃げ込んでも、警察は踏み込み、逮捕することができない時代が続いた。

東ドイツ全土に広がって行った解放運動、民主化運動は、ライプツィヒのニコライ教会に端を発したと言ってよいと思う。ヨーロッパを旅行し、いつも驚かされるのは、教会、宗教が持つ影響力だ。建築、絵画、音楽、そして生活の隅々にまで、カトリックであろうがプロテスタントであろうが、その影が見え隠れするのだ。およそ宗教的でない若者にも、カトリック、プロテスタントにかかわらず、その影響を嗅ぎとるのは容易だ。キリスト教的な歴史の拘束力をマザマザと感じるのだ。

ライプツィヒに始まった民主化運動がニコライ教会を牙城としたのは、どこかにキリスト教的駆け込み寺の思い入れがあったのではないか。ここなら泣く子も黙るエーリッヒ・ホーネッカー(Erich Honecker;スターリン以上の恐怖政策を執っていた東ドイツ国家評議会議長)の直属の秘密警察、市警も、マシンガンを構えた軍隊も、この教会には侵入してこないのではないかと期待した部分があったと思う。教会内に閉じ籠ったのは、信者ばかりではなかったが、彼らに銃をぶっ放すことはない…と、希望的に予測したのではないか。それにしても、参加した市民の一人ひとりは命を賭けていたと思う。 

ところが、40年近くもソヴィエト以上のガチガチの共産主義国家だった東ドイツ(GDR; German Democratic Republic)が、誰しも予想しない形でひっくり返ったのだ。しかも、一人の犠牲者も出すことなく“平和革命”(Friedliche Revolution)が成ったのだ。 

官憲サイドの中にも、この平和的解放運動に共鳴する者がたくさんいたと思う。いずれにせよ、自由都市、商業都市だったライプツィヒならではの平和的な開放運動を成功させたのだ。

No.5-01
デモ行進というより自然発生的に集まった市民
子供を肩に乗せ、チョウチンをかざしている。
そこに” Keine Gewalt”(ノー・バイオレンス)とある。

それは1989年10月9日の夕方の6時のことだった。ニコライ教会に人々が集まり始めた。主導的なオーガナイザーがいたわけではない。自然発生的に自由を求め、民主主義的社会、政治を要求しただけだった。参加した人々も、頑とした共産体制を崩そうと意図していたわけではなかった。おそらく口コミで“ニコライ教会で市民が集会を開いているぞ!”と広がったのだろう。じきに、ニコライ教会は満杯になり、そこに入り切らない市民が通りに溢れ、近くのカール・マルクス広場までビッシリ埋まるほどになったのだった。結果7万人もが集まったのだ。

No.5-02
カール・マルクス広場に集まった群衆
現在、この石畳の広場はアウグストス広場と呼ばれ、
オペラハウスと向かい合うように建つコンサートホールの間にある。

これが、西ドイツやアメリカのCIAが関連し、扇動、後押しをした運動なら、こうまで発展しなかっただろう。草の根的なライプツィヒの市民の自発的運動だからこそ、これだけの人が集まり、結果、成功したのだと思う。初めから反体制、反共産主義を打ち出し、ホーネッカー政権転覆を目指していたら、政府は即、弾圧に乗り出していたことだろう。

東ドイツのテレビは、このライプツィヒの集会を全く放映しなかった。が、人の耳に蓋はできない。ライプツィヒの平和的な解放運動のニュース、映像は西側に流れ、それが逆輸入する形で、東ドイツに広がった。

そこに一人のジャーナリスト、ジークベルト・シェフケ(Siegbert Schefke)の存在を忘れることはできない。彼は西側からライプツィヒに潜り、ライプツィヒの町全体が盛り上がってくるような市民運動を撮影し、西側に流したのだった。彼の命懸けの報道が東ドイツを崩壊させた大きな要因と言ってもいい。

一人のジャーナリストが及ぼした影響の大きさ、結果、歴史を変えたことに驚愕させられる。彼のフィルムは西ベルリンで放映され、建前としては東ベルリンで観ることを禁じられていた西側のニュース、映像を東ベルリンの人々が観ることになった。テレビの電波を封じることはできない。

ベルリンの壁を若者たちが壊し始めた時、西側のジャーナリスト、テレビ局はこぞってその映像を取材し、流したが、それは一種の結果報告だった。自分の身を西側の安全圏に置いてレポートしているだけのことだ。それらの報道は、西側の家庭の茶の間でのんびりテレビを観ている人に歴史的瞬間としてドラマチックなものだったが、ジークベルト・シェフケが撮ったフィルムのように、一国の将来を左右するものではあり得なかったと思う。

ニューヨークフィルハーモニーの指揮者、音楽監督を務め、地元ゲバントハウスオーケストラ音楽監督に舞い戻ったクルト・マズア(Kurt Masur)、神学者のペーター・ツィンマーマン(Peter Zimmermann)、ベルント・ルッツ・ランゲ(Bernt-Lutz Lange)ら“ライプツィヒの6人”が共同声明を出し、市民、警察、軍に、あくまでノン・バイオレンスを貫き、冷静に平和的な運動に終始することをラジオを通じて訴えたのだった。

ライプツィヒの市民集会に端を発した民主化運動は東ドイツ各地に広がった。もう事態を収拾できないと踏んだエーリッヒ・ホーネッカーは元首を辞任した。ニコライ教会の集会の8日後のことだ。事態は急な坂を転げ落ちるように進展した。

ベルリンの壁は崩れ、11月4日には東ベルリンのアレクサンダー広場に50万人が集まったと言われている、がこの数字にはベルリン市民がこぞって参加したとの意味での誇張があるのだろう。アレクサンダー広場に50万もの人はとても納まり切らない。

ライプツィヒのニコライ教会に始まった市民運動が東西統合に繋がり、後年、東ドイツ出身、ライプツィヒ大学出身のアンゲラ・メルケル(Angela Merkel)が首相になると誰が想像しただろう。

同じ年、1989年6月4日の北京の天安門広場に10万人を集めた民主化平和運動を中国共産党政権はあっさりと潰した。戦車を出動させ、30万人もの軍隊を配置した。未だに明確な死者の数は知れないが、少ない数字で300人、多く見るソースでは4,000人の死者を出し、中国共産党政権の安泰を図ったのだ。その4ヵ月後に、ライプツィヒはニコライ教会で滑り出した民主化運動が平和裏に成功し、東西統合に結び付いたのだった。

ソヴィエト共産党が消えても、GDR=東ドイツの共産主義体制はゆるぎないと誰しもが思っていた。ところが、あっけないほどの短期間に東ドイツの共産主義政体は崩れ去った。もちろん、ゴルバチョフが先鞭をつけてくれたことは大きい。しかし、東ドイツで非暴力的な民主運動が成功したのはなぜなのか、なぜ市民の集会を阻止しようと警察や軍が動かなかったのか、発砲しなかったのだろうか。

無抵抗、非暴力の社会、政治運動はとても難しい上、暴力革命以上に個人個人の確固たる意思の強さが要求されるものだ。自己顕示欲の強い先っ走り的人間が出てきて、平和的運動をブチ壊す例があまりにも多いし、また民主化運動の内部に潜り込んだ官憲のスパイが扇動し、暴力に走り、警察に取り締まる糸口を付けるのは常套手段だ。それを許さなかった民主化運動の市民、市民運動は、“奇跡”と呼びたいくらいだ。

 

 

第6回:ライプツィヒという町 その5

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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