■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”~
第50回:遠くへ行きたい
までのバックナンバー


第51回:お国言葉について ~
第100回:フラワー・オブ・スコットランドを聴いたことがありますか
までのバックナンバー


第101回:小田実さんを偲ぶ
第102回:ラグビー・ワールド・カップ、ジャパンは勝てるのか
第103回:ラグビー・ワールド・カップ、優勝の行方
第104回:ラグビー・ジャパン、4年後への挑戦を、今から
第105回:大波乱、ラグビー・ワールド・カップ
第106回:トライこそ、ラグビーの華
第107回:ウイスキーが、お好きでしょ
第108回:国際柔道連盟から脱退しよう
第109回:ビバ、ハマクラ先生!
第110回:苦手な言葉
第111回:楕円球の季節
第112回:フリークとまでは言えないジャズ・ファンとして(1)
第113回:フリークとまでは言えないジャズ・ファンとして(2)

■更新予定日:隔週木曜日

第114回:フリークとまでは言えないジャズ・ファンとして(3)

更新日2008/02/28


弾く方は、からきし駄目であったが、私は聴く方のジャズベースの魅力に惹かれていった。何人かのベーシストの音を聴いたが、殊にチャールズ・ミンガスとスコット・ラファロ、そしてポール・チェンバースの三人を好きになっていく。まったくタイプの違うベーシストだが、それぞれに良さが際だっているのだ。

ラファロは1961年、チェンバースは1969年にそれぞれ他界しているため、私がジャズを聴き始めた頃はすでに存在しない人たちだったが、チャールズ・ミンガスは、当時元気に演奏活動を行なっていた(彼は1979年に他界)。

二十歳の誕生日、私はジャズ喫茶『渋谷ジニアス』で、チャールズ・ミンガスのアルバム『直立猿人』を聴いていた。このアルバムは私の生まれた1956年1月の録音だったために、私が一人で二十歳を祝い、そのささやかな自分へのプレゼントとして選んだものだった。

これは、リーダーのチャールズ・ミンガスの他に、アルトサックスがジャッキー・マクリーン、ピアノはマル・ウォルドロンなど、五重奏団の演奏だが、まるでビッグ・バンドのフルオーケストラのような厚みのある演奏で、その音量と音楽としてのスケールに圧倒される。

私は、その後もしばらくの間は、タイトル曲「直立猿人」と「A Foggy Day」の入っているA面を何回もリクエストをして聴いた(当時のジャズ喫茶は原則、アルバムのA面かB面か、どちらか片面のリクエストを受けていた)。

ミンガスのコンサートには一度だけ行ったことがある。場所は確か新宿厚生年金会館だったと思うが、あまりはっきり覚えていないのが情けなく、悔しい気がする。ドラムスがダニー・リッチモンドだったのは記憶にあるが、その他のメンバーは思い出せない。口惜しい!

けれども、変なことは覚えている。ミンガスが演奏の途中にピアニストと口論になり、怒ってステージを降りようとするが、何とか他のメンバーに宥められ、演奏を再開した。さすがに「怒りん坊のミンガス」だなあ、面白いもの見ちゃったという思いで眺めていた。

彼のレコードを聴くうちに、他の多くのミュージシャンを知っていった。ジャズというのは、ある音楽家からどんどん派生して、いろいろな音楽家を聴き広げていくというのが大きな楽しみのひとつである。

ミンガスが教えてくれたミュージシャンの中で、最も私に大きなインパクトを与えてくれたのがエリック・ドルフィーである。『ミンガス・プレゼンツ・ミンガス』のアルバムの中の「What Love?」での二人のベースとバスクラリネットによる「対話」を聴いたときは、自然と涙が出てきて止まらなかった。音楽でここまでのことを表現できてしまうことに、ただ驚いてしまったのだ。

ドルフィーは、本当に虜になってしまった時期がある。今でも彼の音を一音でも聴くと、彼の世界観に恐ろしい吸引力で引き込まれていく。『ファイブ・スポットのエリック・ドルフィー』は、vol1、vol2ともに、私のベストアルバムである。あの日、ファイブ・スポットの客席にいることができたら……多くのジャズ・ファンが漏らすため息混じりのレバタラ話だろう。

さて、スコット・ラファロ。ビル・エヴァンス・トリオでの『マイ・フーリッシュ・ハート』は、ジャズの演奏の中で最も美しい曲だと思う。あの日、ヴィレッジ・バンガードの客席に……はしつこくなるので止めるが、いあわせた人々はつくづく幸せ者だ。

そのヴィレッジ・バンガードでのビル・エヴァンス・トリオの完全版を、先日店のお客さんからプレゼントしていただき、ただただうれしい思いで聴いている。最初の曲の演奏中に会場で停電があり、ほんの数秒ほど録音できていないのも興味深かった。完全版と言っても、会場のお客さんにしか聞こえなかった音が存在するのだ。

ラファロのベースは、ミンガスとは対極にいると言ってもよいほど、繊細でリリカル、メロディックに歌い、そして何より自由である。交通事故により、25歳の若さでこの世を去るが、夭折であることが、彼の音楽に美しくはかなげな輝きを与えていると考えるのは、残った人間の感傷だけとは思えない。

ポール・チェンバース。バップ、ハード・バップ時代の名盤と呼ばれるアルバムの中の、4割方は彼のベースのバッキングによるものである。私が最も好きなベーシストである。

ジャズ喫茶の定番と言える「クール・ストラッティン」も「静かなるケニー」も「クッキン」も「ブルー・トレイン」も「ザ・シーン・チェンジズ」も「グルーヴィー」もみんな、みんなチェンバースがベースを弾いているのだ。

彼のバッキングは安定感があるから、と答える人があるけれど、私は彼の奏でる4ビートが何より「美しい」から、みんなが彼と組みたがるのだと思う。彼自身、『ベース・オン・トップ』や『GO』などいくつかのリーダー・アルバムを出し、中にはボーイング(弓弾き)の妙技も聴かせるが、残念ながら多くの批評家と同じく、私もあまりよいものがあると思えない。

何と言っても、彼は後ろに回ることによって輝くのだ。その本当に美しいバッキングがあるから、他のミュージシャンのすばらしさが引き出されると言って過言ではないと思う。年譜を見て改めて驚く。彼はこれだけの大仕事をしていて、わずか33歳で亡くなっているのだ。この人も、真の意味でベースの天才だった。

ある時期、よくライヴハウスにも通ったが、最近はまったくと言っていいほど行っていない。80年代以降、いくつかできた、六本木など洒落た街の、合衆国の有名なジャズクラブにはなぜか馴染めず、一度も足を運んだことがない。

唯一、横浜のジャズ・プロムナードには何年か行き続けて、ジャズに浸りきっていたが、なぜか自由が丘の女神まつりと毎年日程が重なって、店を始めてからはほとんど行っていない。日曜日の朝、横浜の英国総領事邸で聴くジャズは、本当にリラックスできてよかったけれど。

今も毎日、有線とCDでジャズを5、6時間は聴いている。けれども、残念ながら、まるでジャズ喫茶のスピーカーを睨めつけるようにして耳を傾けていた頃の、あの苦しいほどの高揚感は蘇ってこない。

"When you hear the music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again."

アルバム『ラスト・デイト』の巻末に収められた、エリック・ドルフィーの言葉である。

 

 

第115回:サイモンとガーファンクルが聞こえる(1)