第253回:流行り歌に寄せて No.63 「黒い花びら」~昭和34年(1959年)
いよいよ、永六輔、中村八大コンビの登場である。そして、井上ひろし、守屋浩とともに「3人ひろし」と言われた中のまず一人目、水原弘の登場でもある。
そして、何と言っても栄えある第1回日本レコード大賞受賞曲として、この曲は歌謡界では最も名の知られた曲の一つである。
このレコードが発売されたとき、六輔26歳、八大28歳、水原弘23歳という若い面々による作品。今考えれば、彼らは華々しい脚光を浴びて受賞に臨んだと想像するのだが、この年、昭和34年12月27日に文京公会堂で行なわれた授賞式は、賞の知名度がほとんどなかったために、客も殆どいないような、質素な式典だったようだ。
当の水原弘が、レコード大賞の受賞の報を受けたとき、「何だい、そりゃ」と聞き返したというエピソードもあるらしい。昭和40年代に入る頃からは、誰もが賞を得るために躍起になって、その授賞式が華やかすぎるほどの「レコ大」を知る身にとっては、ずいぶん意外な気がする話ではある。
「黒い花びら」 永六輔:作詞 中村八大:作曲 水原弘:歌
1.
黒い花びら 静かに散った
あの人は帰らぬ 遠い夢
俺は知ってる 恋の悲しさ
恋の苦しさ
だから だから もう恋なんか
したくない したくないさ
2.
黒い花びら 涙に浮かべ
今は亡いあの人 ああ初恋
俺は知ってる 恋の淋しさ
恋の切なさ
だから だから もう恋なんか
したくない したくないさ
さて、この歌が発売されてから数年経った私が小学校の上級生の頃、担任の先生から、「何年か前、『黒い花びら』という歌が流行ったが、みんなの中で黒い花を見た人はいるかね?」という質問を受けたことがある。
何人かの生徒から目撃したという話が出たが、先生は、「僕も黒ユリを見たという記憶があるが、あれは正確に言うと、赤や紫の色素が濃く集っているだけで、本当の黒ではないらしい。花は、蜂などの昆虫に花粉を運んでもらわなければ生きていけないが、黒では虫たちには見えないのだそうだ」。
生徒たちは、一様に「ふーん」と感心した様子。最後に先生は、「でも、あれらを黒い花と言ってもいいんじゃないかと僕は思うんだ。実際の黒よりも黒っぽい感じがして、何だか不気味で面白いじゃないか」と結んだのである。
この担任の先生は、図画工作が専門で、ある時期に私に対して校舎のスケッチのやり直しを何日にもわたり、幾度となくさせて、大いに悩ませた方ではあるが、私は大好きな先生だった。
今でも、この『黒い花びら』を聴くと、真っ先にあの煙草好きの先生のことを思い出す。
閑話休題。作曲家の中村八大は、よく知られている通りジャズ畑の人。早稲田高等学院時代からピアニストとしていくつかのバンドで客演し、早稲田大学に入ってからは、ジョージ川口(ds)、松本英彦(ts)、小野満(b)とともに、ビッグフォーを結成、大変な人気を得、一時代を築いた。
この『黒い花びら』の間奏でも、スリーピー松本こと、盟友松本英彦のテナー・サックスの渋い響きを聴くことができる。
作詞家の永六輔も、早稲田大学の学生時代に中村八大と知り合い、いわゆる「六八コンビ」として、その後『遠くへ行きたい』『上を向いて歩こう』『こんにちは赤ちゃん』などの大ヒット曲を作り上げていく。『黒い花びら』は、記念すべきそのコンビ第一作とされている。
そして歌手の水原弘は、高卒後ジャズ喫茶で歌っていたときに、渡辺プロの渡邊美佐にスカウトされて芸能界に入った。
昭和32年、「ダニー飯田とパラダイス・キング」に22歳の若さで、石川進とともに初代ヴォーカルとして参加するが、翌年ソロ歌手になるために脱退している。水原の後釜としてパラキンに加入したのが坂本九だったという。
水原は『黒い花びら』で一躍人気歌手となり、その年から3年連続紅白に出場するなど大活躍をする。しかし、その生き方は破天荒というか、無頼と呼べばよいのか、本当に凄まじいものだったらしい。
酒とギャンブル、そして借金。返済のための営業回り。女性に対しては深く長い交際をするのだが、いずれ傷つき合い破綻をする、それが繰り返される。いつか世間から疎まれ、そして次第に忘れられる存在となっていった。
ところが、ある時転機が訪れる。・・・続きはこのコラム、水原弘の次の曲の項に書いていきたいと思う。
-…つづく
第254回:流行り歌に寄せて
No.64 「ギターを持った渡り鳥」~昭和34年(1959年)
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