第454回:流行り歌に寄せて No.254 「雨のバラード」~昭和46年(1971年)4月1日リリース
年齢とともに、雨の日の行動が億劫になってきた。まだ四十代だった頃までは、雨の日の自転車通勤も何ら問題にすることもなく、さっさと合羽を着込んで走り出した。ラグビー観戦も、外苑前駅で合羽に着替え、小走りで秩父宮に向かった。
それが、最近は雨が降っているだけで通勤が重い気持ちになったり、ゲームの日が予め雨だと分かると、観戦の意欲が削げたりするのである。「雨の日もまた楽し」という気分になれない。何か、寂しい思いがする。
音楽の中で「雨」を扱ったものは、夥しい数になるだろう。歌曲に始まり、ミュージカル、ジャズ、ロック、フォーク、ニューミュージック、歌謡曲、唱歌、童謡、…etc。あらゆるジャンルの音楽に登場してくる。
私のような音楽に素人な人間でも、脳みそを絞り切れば50曲くらいの曲名は出てくると思う。
そんな中で、今回の『雨のバラード』は、雨の持つどうしようもないやるせなさ、憂鬱というものを、詞と曲で見事に表現した作品だと思う。最近の私の心情に近い気がしている。
元々は、湯原昌幸も所属していたグループサウンズ、スウィング・ウエストのシングル『幻の乙女』(なかにし礼:作詞、鈴木邦彦:作・編曲)のB面として(その後ジャケットを差し替え両A面として再発売)、昭和43年(1968年)5月10日にリリースされた曲だった。
スウィング・ウエストは、不勉強な私はほとんど知らないGSだが、初代リーダーが、ホリプロ創業者の堀威夫、在籍していたメンバーに田辺エージェンシー創業者の田邊昭知、守屋浩、佐川満男ら、錚々たるメンバーの、昭和32年結成の伝統のグループだった。
スウィング・ウエスト盤は、湯原と梁瀬トオルとのツイン・ヴォーカルであり、サビの「雨が消してしまった 遠い過去の想い出」の部分は、高音域で主旋律担当の梁瀬トオルが一人で歌っている。
作詞のこうじはるか、作曲(スウィング・ウエスト盤では編曲とも)の 植田嘉靖は、実は同一人物で、こうじはるかは、植田嘉靖の作詞家としてのペンネームだった。もともとスウィング・ウエストのメンバーだった植田だが、ヒット曲『恋のジザベル』を発表後にグループを脱退し、マネジメント業に転身、作詞、作曲の方面でも活動している。
湯原昌幸は、昭和45年スウィング・ウエスト解散後に、植田嘉靖の作詞、作曲による『見知らぬ世界』でソロデビューをするが、ほとんど売れずに、ジャズ喫茶回りなどをしながら、2曲目に『雨のバラード』を出すことになる。
「雨のバラード」 こうじはるか:作詞 植田嘉靖:作曲 玉木宏樹:編曲 湯原昌幸:歌
降りしきる雨の舗道
頬つたう銀のしずく
傘もささず歩いてた
あゝあの人の
うしろ姿が 淋しそうで・・・
声かけて呼び止めたい
なぜか心さそわれて
足止めて振り返れば
あゝあの人の
うしろ姿が 雨にけむる 街角
*名も知らぬあなたに
昔の僕を見た
恋して燃えた火を
雨が消してしまった
遠い過去の想い出*
忘られぬ雨の舗道
頬つたう銀のしずく
傘もささず歩いてた
あゝあの時の
僕の姿に よく似ている あの人
(*くり返し)
降りしきる雨の舗道
頬つたう銀のしずく
傘もささず歩いてた
あゝあの人の
うしろ姿が 淋しそうで・・・
ラララ・・・ラララ・・・・・
このコラムで以前もご紹介した『不二家歌謡ベストテン』。当時、ニッポン放送の日曜朝(08時45分〜09時)の人気ラジオ番組だった(私が聴いていた東海ラジオでは、同日の11時〜11時45分)。
その番組の中で、この曲がかかった後の司会者ロイ・ジェームスの「好調、湯原昌幸の『雨のバラード』をお届けしました!」という言葉は、今でもはっきり耳に残っている。3週連続でオリコン・チャート1位、今までの累計で120万枚を売り、彼の最高ヒット曲となった。
素晴らしいヒット曲だったにも拘らず、当時の私は、何かとても鬱々としたこの曲調が馴染めずにいた。それが、ずっと続いているのだろう。自分にとって、気分が重くなるような雨の降る日には、この曲のメロディーが、今でも脳裏をかすめるのである。それだけ、よくできた作品だと思う。
湯原昌幸は、その後歌手、俳優、司会などのマルチタレントとして大活躍するが、ひとつだけ大罪を犯している。それは、昭和58年、我らがアイドルである荒木由美子をお嫁さんとしてさらって行ったことである。
当時、36歳の彼が、何と13歳年下、23歳の可憐な荒木由美子と一緒になったのは、大いに我々を羨ましがらせた。人にあれだけ、雨の日は鬱々としたものだと植え付けた人間の晴れ姿は、とても眩しいものだった、今でも、許せない思いである。
-…つづく
バックナンバー
|