第251回:流行り歌に寄せて No.61 「南国土佐を後にして」~昭和34年(1959年)
何回も繰り返して恐縮だが、私の実家にテレビが入ったのが、昭和34年のことだった。我が家は、テレビのある隣屋へあまりに入り浸っていた出来の悪い3歳男児がいたために、いたたまれず購入したものだが、世間の多くの家庭の理由はそうではなかったようだ。
この年、今上天皇、当時の皇太子の成婚があり、そのパレードの模様を一目テレビで見たいという思いで、かなりの無理をしてテレビを購入したのだという。見方を変えれば、我が家を含め"かなりの無理"さえすれば、何とか高額の電気製品が買える、そんな経済状態に多くの家庭がなり始めていたのだろう。
受像機の普及とともに、各地方局が次々に誕生していく。前年の昭和33年の暮れに、NHK高知放送局開局の記念番組として、『歌の広場』という番組が放映された。司会は、あの「どうも、どうも」の高橋圭三アナウンサーだった。
その時、出演した東京生まれ東京育ちのペギー葉山が、今で言うご当地ソングとして『南国土佐を後にして』を披露した。それがきっかけで、テレビを通してこの曲に人気に火が着き、翌昭和34年5月にペギーの吹き込みでキングからレコードが発売される。
そして、約1年間でミリオンセラーとなる大ヒット曲となった。さらに、8月には小林旭、浅丘ルリ子主演で同名の日活映画が作られ、ペギーも本人役で登場する。
テレビで広まったものがレコーディングされ大ヒットし、さらには映画化までされた、おそらく最初の作品ではないかと思う。
また、テレビの効果というものの絶大さを物語る初期のエピソードとも言えよう。昭和28、9年にマーキュリーから丘京子が、昭和30年にはテイチクから鈴木三重子がそれぞれレコードを出したが、ほとんど知られることがなかった。
鈴木三重子は、当時はペギーよりも有名な歌い手だったから、もし彼女の方が先にテレビカメラの前で歌っていたら、という思いは少し残る。しかし、民謡調に歌い上げる鈴木よりも、洋楽がその背景にあり、この歌をしなやかに歌いこなしたペギーの方に、やはり時代の流れは即していたのかもしれない。
「南国土佐を後にして」 武政英策:作詞・作曲 ペギー葉山:歌
1.
南国土佐を後にして
都へ来てから 幾歳(いくとせ)ぞ
思い出します 故郷(こきょう)の友が
門出(かどで)に歌った よさこい節を
土佐の高知の 播磨屋橋で
坊さんかんざし 買うをみた
2.
月の浜辺で 焚火(たきび)を囲み
しばしの娯楽の 一時(ひととき)を
わたしも自慢の 声張り上げて
歌うよ土佐の よさこい節を
みませ 見せましょ 浦戸をあけて
月の名所は 桂浜
3.
国の父(とう)さん 室戸の沖で
くじら釣ったと 言う便り
わたしも負けずに 励んだ後で
歌うよ土佐の よさこい節を
言うたち いかんちや おらんくの池にゃ
潮吹く魚が 泳ぎよる
よさこい よさこい
この曲のルーツは、旧日本陸軍第40師団、高知出身の歩兵第236連隊の部隊歌であったというのが、今では定説とされている。
戦後間もなくの頃、ある酒場だと思われるが、その部隊か、あるいは部隊の人から歌を聴いた一人の兵隊帰りが、酒に酔ってこの歌を歌っていたのだという。それを耳にした作曲家の武政英策は、兵士たちの苦労が偲ばれる曲として感銘を覚えた。
そして、この歌を知る何人かの人を見つけ、実際に歌ってもらって採譜をするが、曲が人によって微妙に違う。採譜したメロディーも一部生かしながら、曲を作っていき『南国土佐を後にして』としてまとめ上げたのが昭和27年頃のことだそうだ。
武政英策(明治40年(1907年)9月18日~昭和57年(1982年)12月1日 享年75歳)の生涯は、故郷ではない地、土佐の高知に根付き、またこの地のために大変な貢献をしたものだった。
東京電気学校卒業後、本来の工学系で発明、開発などで数々の業績を残しながらも、音楽理論では当時の第一人者である門馬直衛と山田耕筰に師事し、音楽を学ぶ。
昭和12年にはNHK京都放送局和洋管弦楽団の初代指揮者になり、数多くの映画音楽監督を手がけるなど活躍を続けていたが、昭和20年の大阪空襲で自宅が焼失した後、妻の養家のある南国市に疎開をした。
そして、戦後になっても中央に戻らずに高知市内に居を構えて、亡くなるまでこの地で37年間、ひたすら精力的に音楽活動を続けた。
高知県内の土地を歩き回り、新しい民謡の作曲、民謡・童歌の採譜などを地道にしていった。そしてNHK高知放送局の楽団の指揮、作曲、編曲を手がける。
さらには県内の多くの音楽番組をプロデュースし、地元のアマチュア・バンドの育成に腐心し、高知県警音楽隊、高知県職バンドの指揮を執るなど、徹底して土佐の音楽の向上に骨身を惜しまなかったのである。
現在、高知県の一大イベント「よさこい祭り」の、毎年8月12日に行なわれる後夜祭の大賞として「武政英策賞」が制定されている。
-…つづく
第252回:流行り歌に寄せて
No.62 「東京ナイト・クラブ」~昭和34年(1959年)
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