野添千納
(のぞい・ちの)

パソコン通信黎明期よりパソコンをコミュニケーションの手段として使い続けるコンピューター&コミュニケーション・ジャーナリスト。33歳。

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第2回:多様性への寛容さ

インターネットは現代人の魔法の鏡──自分にとって都合のいい現実だけを映し出してくれる便利で危険な道具だ。

前回触れたように、社会やライフスタイルを変えうる便利な道具としてとらえるぶんにはいい。だが、インターネットが創造する世界こそが自分の居場所だという考え方にはあまり賛同できない。ネットの仮想世界ばかりに浸かっていると、それを使う人間の自我が現実世界の常識とは乖離してしまいそうな不安を覚えることがある。自分にとって都合の悪い情報や趣味趣向に合わない情報を一切遮断して、理想とする情報だけを集めることができるからだ。

「検索サービスで自分に不利な情報がないか確かめるのがペシミストで、有利な情報がないか探すのがオプティミストだ」 そんなジョークすらある。そして、現実にどちらの情報も同じくらい見つかるのがインターネットだ。現実の社会では職場や街中で苦手な人にばったり出会ったときには我慢して話を合わせなければならないことがあるが、インターネットの上ならいくらでもこうした面倒から逃げる道がある。

便利な「道具」? 確かにそうかも知れない。しかし、それによって創造される社会が、はたして「良い社会」かというと疑問がある。この社会には「Diversity(多様性)」に対する寛容さがない。もっといえば極めて排他的な閉鎖社会でしかない。「フレーム」という言葉をご存知だろうか? 掲示板などで突然、炎のように燃え上がる言い合いや罵りあいのことだ。掲示板などをよく利用する人であれば、何度か出くわしたことがあるはずだ。こうしたフレームの多くは、ある掲示板をふらりと訪れて、意見や情報交換に参加しているうちに、他人の思考回路や価値観の違いにどうしても我慢できなくなった「よそ者」が始めることが多い(もっともこうした火付け役の中には、たまたま運悪く「自分には理解不可能な常識」がまかりとおる社会に遭遇してしまった者もいれば、はじめから怒りや悪意をぶつける対象を求めて歩いている者もいる)。

ネット社会に参加する者として、自分が安易なフレームに巻き込まれるのはたまらないが、最近の現実社会においてもこうした「フレーム的」な事件やトラブルが増えているような気がする。世間では人種、文化、言葉、ハンディキャップ、性別などの多様性が拡大しているといわれている。それに対する認知や寛容さもどんどん広まっているはずなのだが、こうした流れと相反するように排他的な閉鎖社会もどんどん増えつつあるような気がするのだ。とくに、見た目や行動、考え方など、さまざまな面で他人とどれだけ同化できるかどうかによって自分の価値や存在を確認する性向の強い日本人は、こうした多様性に対するリアクションもさまざまありそうだ。そうした彼らが「現代の魔法の鏡」を使うとなると事情はいよいよ複雑になりそうだ。重要なのは、電子社会と現実社会でのバランス感覚なのかもしれない。

 

→ 第3回:コミュニケーションの教育


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