第17回:酒場サルーンと女性たち その17
■ビッグ・ノーズ・ケイト その2
OK牧場の決闘の顛末はすでに書いた。
決闘後、二人はコロラドに渡り、グレンウッドスプリングですでに悪くなっていたドク・ホリデイの肺結核の療養をしている。当時、肺結核は死に至る病の上、感染力が強いので恐れられていた。私の連れ合いの縁戚も肺結核に罹り、家屋から離れたところにテントを張り、隔離されていたという。100年近く前の話だが…。
大した治療法もなく、ただ安静にし、滋養するだけだった。病気そのものの治療よりも大きかったのは、世間が持つ感染への恐怖との争いだった。ケイトは憤然とドク・ホリデイを守り抜いた。現在、グレンウッドスプリングには町営の大きな温泉プールがあり、洞窟サウナもある。温泉が肺結核に良いとされていたが、そこでドク・ホリデイは息を引き取った。墓は町を見下ろす小高い丘の上にある。
ケイトは周囲を呆れさせるほど献身的にドク・ホリデイを看病したことは、口うるさい西部歴史家の間でさえ、認められている。当時の結核患者は忌嫌われ、また感染力が強いことから、誰も患者に近寄ろうとしなかったが、ケイトはドクに食べさせ、シモの世話をし、汗ばんだ体を拭き清め看病し、そして彼の死を看取ったのだった。
ドク・ホリデイを失った時、ケイトは女盛りの38歳だった。激情家ではあっても、ケイトは天性の娼婦ではなかったのだろう、次なる相手は鍛冶屋、西部では主に馬の蹄に貼る蹄鉄作りが主だった。その鍛冶屋のジョージ・コーミングスと同棲、結婚している。
ジョージはアイルランドからの移民で、ドク・ホリデイとは正反対の、ギャンブルとは縁のない質実剛健の労働者だった。だが、アイルランド人のサガなのか、大酒飲みではあった。二人はコロラドの金銀鉱山のブームタウンを渡り歩いた末、アリゾナ州のビスビーに移っている。そこでケイトはベイカリーショップを営んでいる。そこからアリゾナ州のドスカベッサスでホテルの雇われマネジャー兼何でも係のような仕事にジョンとルル・ラースという変名で就いている。
ジョージのアル中度が酷くなり、頻繁にケイトに暴力を振るうようになり、結果、ケイトはジョージの元を離れている。ジョージは、アリゾナ州コートランドで1915年に自殺している。
鍛冶屋のジョージと別れ、いつ鉱夫のジョン・ハワードと一緒になったのかハッキリ分からないが、感情が有り余っているケイトは、ジョージに見切りをつけていくばくもなくジョン・ハワードと同棲し始めたのだろう。
今度のダンナのジョン・ハワードは鉱夫上がりではあったが、鉱山の利権を持つなかなかの資産家だったようだ。と言うのは、1930年にジョンが亡くなった時、遺産相続でジョンの前妻の娘と盛んにやり取りをしているからだ。それがどのくらいの金額になるのか判明していないが、不動産を含んでおり、当時のアリゾナ州法では、外国籍の者は不動産を所有できなかったことが争点になっている。ケイトはハンガリーの国籍のままで、アメリカの市民権、国籍を取得していなかった。
ケイトが並の娼婦でなかったことは、彼女がその件で実に多くの手紙、クレームをアリゾナ州知事(Grorge W.P.Hunt)に書き送っていることで知れる。それは実に立派な英語で書かれ、自分の立場をキチンと説明し、いかに自分が正当な遺産相続者であるかを、感情に走らずに説明しているのだ。
15-16歳で家出し、落ち着かない波乱万丈の生き方をしてきながら、どこでこのような教養を身に付けたのだろう。ドク・ホリデイの従姉妹、カレン・ターナーの伝記によれば、ケイトがドク・ホリデイと一緒になった時、すでにドク・ホリデイと対等に会話ができるインテリジェンスをケイトは持っていたと記している。西部開拓時代、辺境で彼女のように優れた英文を書ける娼婦がいたことに軽い驚きを覚える。そう言えば、凡そ教養とは無縁に見えるビリー・ザ・キッドも実にきちんとした手紙を書き残している。
ケイトはそのまま亡き夫ジョン・ハワードの屋敷に住み続けることができたが、実情は冬を越すための薪にも不自由するほどの貧窮状態だった。その期間、1935年に彼女が81歳の時、地元の史家A.W. Bork及びAnton Mazzonovichiが詳細なインタビューを行なっている。ケイトは何事につけ率直にと言うよりアケスケに語り、ドク・ホリデイとの生活、OK牧場の決闘の顛末など、ケイトの語りで詳細を知ることができた。
ケイトは根が丈夫だったのだろう、ドク・ホリデイの結核にも感染せず、当時としては、非常に長生きの91歳まで生き、亡くなった(1940年11月2日)。西部開拓時代、辺境の女性の平均寿命は40歳に届かなかった。死因は老衰に伴う心臓疾患だった。このタフを地で行った女傑も、西部史に名を残し去る時が来たのだ。
葬られたのはアリゾナ州のプレスコットで、墓碑は“Mary Cummings”と刻まれ、彼女の元の姓HoronyもHollidayでもなく、酒乱の気のあるアイルランド人の夫Cummingsの姓を取っているのは、ケイトの意思だと思われる。墓碑に刻まれている生年が、1950年と間違っているのも、いかにも西部辺境らしく、愛嬌がある。

Mary Cummingsの墓碑
まさか墓碑に”Big nose Kate"と刻むわけにもいかないだろうが
Cummingsという2番目のアイルランド人の夫の名を使っている
墓碑はアリゾナ州、プレスコットのパイオニア墓地にある
-…つづく
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