第369回:3度の列車交換 - 黒部峡谷鉄道 4 -
森石を出て橋を渡ると、中部山岳国立公園に入るという。室井さんのアナウンスの受け売りである。耳が慣れてきて、トンネル以外では声を聞き取れるようになってきた。女性の声だから耳が敏感になるようだ。男性の声だと聞き取れないだろう。室井さんの明るく弾んだ声がちょうどいい。「富山、新潟、長野、岐阜の4県に渡る山岳公園です」。かなり広い。車窓は川を見下ろしている。この川は黒部川ではなく黒薙川である。ニホンカモシカやタヌキや熊が見えるかもしれない……というけれど、残念ながら遭遇できなかった。
最初の下車可能駅、黒薙
線路はいったん黒薙川に沿って進み、最初の乗降可能駅、黒薙に停車した。単線でホームは片側だけ。降りる人が意外と多い。この駅から20分ほど歩くと黒薙温泉がある。川のそばの露天風呂で混浴という。目の前の女性が降りるなら付いて行こうかと思うけれど、おとなしく座っておられる。トンボ帰りで帰宅する私には、たぶんそれは幸いであった。黒薙駅を出ると水色のペンキで塗られた橋を渡る。この橋は後曳橋というそうだ。名前の由来は、川底からの高さが60mもあり、徒歩で渡ろうとすると怖くて後ずさりしてしまうという。なんのなんの、私が黒部峡谷を徒歩で行けと言われたら、入り口の山彦橋で逃げ出すだろう。鉄道がなければここまで来ないし、この先も行かない。
後曳橋を渡る
後曳橋の先の長いトンネルから出ると笹平駅。ここは一般客の乗降はできない。ここで上り列車と交換する。観光シーズンだから交換駅はフル稼働だ。上り列車はこちらと同じ編成で、宇奈月側にリラックス車、続いて普通客車。乗客はお年寄りが多い。道は険しくとも、トロッコ列車なら苦もなく楽しめる。笹平の先は右の急カーブがいくつかあって、この列車の前方の車輌が眺められる。緑の山の景色に少し飽きて、機関車に注目していると出平ダムが現れる。計算して景色を組み立てたわけではないだろう。しかし良いテンポである。ダムの壁から勢い良く水が吹き出していた。
笹平駅で交換
出平ダムに隣接した出平駅。ここでも列車交換が行われた。今度の列車は拍子抜けするほど短い。機関車1台にリラックス車5両。団体客の需要が少ない時間帯だろうか。どういう理由で編成数を決めているのか気になる。すれ違いながら客車を見ると乗客も少ない。いや、降車客がいる。これは観光列車ではなく、ダム工事関係者用の列車らしい。最後尾には1両だけ無蓋貨車を連結していた。
出平ダム
珍しく短い列車が来た。業務用列車だった
室井さんのアナウンスが要所要所に流れる。細い峰が並ぶ出六峰、切り立ったねずみ返しの岩壁。猫に追われたネズミが登れないという。こんな山奥にネズミも猫もあるものかと思う。代案を考えてみるけれど、しかし良いフレーズが思い浮かばない。一時はパソコンのコピーライターとして稼いだ時期もある私だが、知恵は枯れ果ててしまったかと悲しくなるばかりだ。うーん「鬼の背もたれ」はどうだろう。いや、背中を預けるにはもっと心地良さそうな山肌がたくさんある。
出六峰
黒部第2発電所。建物はほんの一部。奥の石の壁がネズミ返し
ねずみ返しの岩壁が後方に去り、振り返ると線路が見える。この先の猫又駅から分岐した線路で、黒部川を渡って建物に入る。この建物は黒部川第2発電所だ。室井さんによると、自然の景観を壊さぬよう、主要な設備は地下に収めているという。猫又駅で列車交換。今度は旅客用で機関車2両、後ろに特別客車と普通トロッコを連ねていた。
出平で交換。鉄道の日のヘッドマークを装着している
これが思い出の客車だろうか
特別客車は向かい合わせに座るようで、窓ガラスがある。子供の頃に辛い思いをした客車はこれだろうか。眉間にシワを寄せた客が多いような気がする。後半の普通トロッコの人々は笑顔が多い。やっぱり黒部峡谷鉄道の真の楽しさは普通トロッコだろう。
猫又から先はトンネルが多い。いよいよ谷が細くなり、線路を敷く場所に困ったらしい。無理やり平らな路盤を作るより、トンネルを掘ってしまえ、ということだ。列車を運行しない冬期、線路はダム職員の連絡道になるというから、トンネルのほうが都合がいいのだろう。鉄橋を渡ると谷は左側に移った。左側座席の客に、ようやく良い景色が展開する。欅平行きトロッコ列車に座るなら右側がいい。
鐘釣橋からの眺め。この後は左の車窓がいい
-…つづく
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