■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”.
第2回: Save the Last Pass for Me.
第3回:Chim chim cherry.
第4回:Smoke Doesn't Get in My Eyes.

■更新予定日:隔週木曜日

第5回:"T" For Two. ~私の「ジュリーとショーケン」考 (1)

更新日2003/07/17


かつて、日本の天空にはグループ・サウンズ(GS)という名の数多くの星座があって、とりわけザ・タイガースと、ザ・テンプターズの二つは、その煌めきでしのぎを削っていた。その星座のなかで、ジュリーとショーケンという二つの巨星は他の星々を圧倒し、星座が崩れてしまった後も、ずっとその輝きを失なってはいない。

「青い彗星」「黄金の杯」など色彩のあるもの、「船の進水」「柄つき床拭き」という何だか観念的なもの、そして「野生児」「野蛮人」「蜘蛛」「アメリカ彪」「牡牛」「虎」「誘惑する者(あるいは悪魔)」と続く猛々しく、またどこか偽悪的な臭いを放つものなど、GSのグループ名にはいろいろあった。

因みに本名の方は、順に「ブルー・コメッツ」「ザ・ゴールデンカップス」「ザ・ランチャーズ」「ザ・モップス」「ザ・ワイルドワンズ」「ザ・サベージ」「ザ・スパイダース」「ザ・ジャガーズ」「オックス」そして「ザ・タイガース」「ザ・テンプターズ」。

1966年頃から68年頃のわずかの期間だが、日本中でとんでもないブームになった。テレビもラジオも朝から彼らの曲をくり返しくり返し流し、連日満員のコンサートでは少女たちが、文字通り狂い叫んだ。どんなにおとなしい女の子でも、自分の部屋の壁には、「明星」や「平凡」についてくるGSアイドルのポスターを飾っていた。

そんなGSの中で、67年、ほぼ同じ時期にレコード・デビューした二つのグループ。京都出身、大阪で内田裕也にスカウトされ、渡辺プロ所属のザ・タイガース。メンバーは、沢田研二(vo)、加橋かつみ(lg)、森本太郎(sg)、岸辺おさみ(bs)、瞳みのる(ds)、代表曲は「君だけに」「モナリザの微笑み」などがあった。

一方、埼玉出身、東京で田辺昭知にスカウトされ、堀プロ系のスパイダクション(田辺エージェンシーの前身)所属、ザ・テンプターズ。メンバーは、萩原健一(vo)、松崎由治(lg)、田中俊夫(sg)、高久昇(bs)、大口広司(ds)、こちらは「神様お願い!」「エメラルドの伝説」などが、代表曲だった。

ほとんどが作られたイメージだが、対照的なグループとして人気を二分していた。例えば、テレビCMでも、ザ・タイガースが、「チョッコレート、チョッコレート、チョコレートは明治」と歌えば、ザ・テンプターズは、「ヤング、もりーなーがー」と歌ってみせた。テレビや雑誌の他、いろいろな媒体で彼らのライバル意識を煽っていたように思う。

ジュリーこと沢田研二と、ショーケンこと萩原健一の二人のリード・ヴォーカルも、宿命のようにまったく個性の異なる存在だった。二人に共通なのは、根にあるしたたかな不良少年の影。しかし、ジュリーがどちらかというと貴公子然とした美少年のイメージで、その影をラップしていたのに対し、ショーケンの方は、翳りのある、半ばふてくされた態度で、その影をときどき垣間見せていた。

実のところ、私はGS時代の二人をあまり好きではなかった。ジュリーの華やかさにクラスの女の子が騒いでいると、おそらく嫉妬の裏返しで、「あんなチャラチャラしたののどこがいい」と思っていた。ショーケンに「あの不良ッぽさがたまらない」と熱を上げている子からは、「あんたなんか一生、ああはなれないでしょうね」とバカにされていたので、「不良のどこがいいんだ」と言い返したところ、その前の倍、バカにされた。当時、まだ小学生か中学に入ったばかりの男の子だった私には、「危険な臭い」に魅力を感じるのは少し無理だったのだと思う。

二人は、71年、それぞれのグループ解散後、ザ・スパーダースの井上堯之(g)、大野克夫(kb)、ザ・タイガースの岸部、沢田、ザ・テンプターズの大口、萩原というスターを集めたスーパー・グループ「PGY」でツイン・ヴォーカルとして、ほんの短い期間、「花、太陽、雨」などといった曲を、一緒に歌っていたこともある。

私はかなり好きなグループだったが、当時は人気稼ぎの、商業的な寄せ集めバンドという酷評を得ていた。レコード・デビュー前の京都大学、日比谷野音での他のロック・グループと一緒に出演したコンサートでも、このPGYだけが痛烈な「帰れコール」を浴びた。その後も長い間ずっと、よくない評価を受け続けていたが、最近になってその音楽性を再評価しようという声も増えてきているようで、個人的には「ようやく」という気がしている。

今までそれぞれのグループでスターとしての地位を保っていた二人が、鳴り物入りで加入したグループPGYの失敗は、彼らに少なからぬ挫折感を与えたに違いない。ただ、この時に、後の井上堯之バンドの、大野、井上と親交を結べたことが、後の二人にとって大きな財産になった。

ジュリーは、71年まだPGYに所属中に、「君をのせて」でソロデビューを果たした。私の大好きな歌で、おそらく今まで何百回となく、口ずさんでいることだろう。サビの部分の「ア~ 君をのせて 夜の海を…」がとてもいい。この人ほど、「ア~」という発声を、甘く、切なく、艶っぽく歌える歌手を、私は知らない。その後の「危険なふたり」も「勝手にしやがれ」でも、この「ア~」で、言葉を超える情感をよく表わしている。彼は、その後順調にヒット曲を出して、一度失ないかけたスターの座を取り戻した。

一方、ショーケンは役者に転じて、テレビ番組「太陽にほえろ」(72年~)のマカロニ刑事役、「傷だらけの天使」(74年)の私立探偵、修役で個性を生かした、いわゆるハマリ役を得る。「傷だらけの天使」のオープニングで、朝食を貪り食うシーンはあまりにも有名だが、私にはもう一つ、とても印象に残るシーンがあった。

ドラマの最終回、風邪をこじらせて死んでしまった弟分、水谷豊演ずるアキラの裸の亡骸を、アパートの屋上で沸かしたドラム缶の風呂に入れてやる。そして、週刊誌のヌードグラビアを、何枚も何枚もアキラの身体に、泣きながらベタベタと貼りつけていくのだ。この場面は、滑稽で美しく、哀しかった。

GS時代の二人を敬遠していた私が、ものをいろいろ思い悩む時期に入り、意識の中での彼らとの距離が少しずつ近くなってくると、いつのまにかその魅力に惹かれるようになっていた。ジーパンの前ポケットに両手を突っ込んで、肩をすぼめて歩いていた20歳前の頃のことだ。

つづく……

 

文中の楽器などの略称について。vo-リードヴォーカル、kb-キーボード、g-ギター(lg-リードギター、sg-サイドギター)、bs-ベース、ds-ドラムス。

 

第6回:"T" For Two. ~私の「ジュリーとショーケン」考 (2)

 
 TOP-トップページ》 《コラム一覧 》 《のらりインタビュー》 コラム・バックナンバー
……………………………………現在連載コラム……………………………………
新・汽車旅日記 】 【店主の分け前 】 【イビサ物語
亜米利加よもやま通信 】 【ひとつひとつの確かさ 】 【よりみち
………………………………掲載完了イチオシコラム………………………………
  [拳銃家業 ] [貿易風の吹く島から ] [くらり、スペイン ] [グレートプレーンズのそよ風 ]
[フロンティア時代のアンチヒーローたち ]

   
このサイトに関するご意見・ご感想・お問い合わせはこちらまで。

Copyrights 2018 Norari