■店主の分け前~バーマンの心にうつりゆくよしなしごと

金井 和宏
(かない・かずひろ)

1956年、長野県生まれ。74年愛知県の高校卒業後、上京。
99年4月のスコットランド旅行がきっかけとなり、同 年11月から、自由が丘でスコッチ・モルト・ウイスキーが中心の店「BAR Lismore
」を営んでいる。
Lis. master's voice

 


第1回:I'm a “Barman”~
第50回:遠くへ行きたい
までのバックナンバー


第51回:お国言葉について
第52回:車中の出来事
第53回:テスト・マッチ
第54回:カッコいい! カッワイイ!

■更新予定日:隔週木曜日

第55回:疾走する15歳

更新日2005/07/28


盗んだバイクで走り出す
行き先も解らぬまま
暗い夜の帳りの中へ
誰にも縛られたくないと
逃げ込んだこの夜に
自由になれた気がした 
15の夜

尾崎豊のデビュー作「15の夜」のサビの部分だ。最近では、昔だったら1年に1回起きるか起きないかの大事件が1週間に1回のペースで発生する。だから、ずいぶん前の事件として、すでにみなさんの記憶の奥の方に追いやられたかも知れないが、福岡、東京で続けて15歳の少年が尊属殺人を犯してから、まだ1ヵ月あまりしか経過していない。

15歳と言えば、一般的には中学3年か高校1年、あるいは社会人1年である。現代ではフリーターやニートなどと呼ばれる人々も、この年代にはいるのだろう。私の息子も15歳の高校1年生、殊に東京の両親殺人の少年は、今春息子と同じ入試問題を受けた都立高校の1年生ということで、いろいろと考えさせられた。

ノコギリを持つ兄に包丁で応戦し何回も刺した末、浴槽に沈めたり、父親を鉄アレイで殴った後刺し殺し、母親を数十ヵ所刺した上、ガス爆発をさせたりと、今書いているだけで気分が悪くなり、気が遠くなってしまうような殺人事件をなぜ彼らが犯してしまったのだろう。

二つの事件が続けて起こったので並んで語られるのだが、同じ尊属殺人でもその背景はかなり違う。兄を殺してしまった彼は、度重なる理不尽ないじめを受け続けていた。事件当日も、命令がよく聞こえないのを聞き返したことに腹を立てた兄に、ノコギリで切りつけられている。

一方両親を殺してしまった彼は、ある時期から両親に対して殺意を抱き始め、周到な準備をしていた。事前に友人にもその計画を話したり、祖父への手紙でも何かの行動に出るであろうことを仄めかしたりしていた。

衝動的か計画的かその行動に違いはあるものの、共通して言えることは、彼らはその瞬間キレてしまったのだ。キレる時の音が聞こえてくるぐらい凄まじく。そのことについて、息子と話し合ってみた。

「どうして、あんなキレ方をするのだろうか」と私。

「両親を殺した子のことで言えば、小さい頃から親にきちんと分かるように叱ってもらっているのだったら、あんなふうにはならないんじゃない。叱られるんじゃなくて、いつも感情的に怒鳴られていたり、バカにされるような言われ方をし続けられたりすれば親をうっとうしく思うようになる。それが鬱積して、いつか爆発するんだと思うよ」

「お兄ちゃんを殺してしまった子は、いつもいつもいじめられていて、遂に耐えられなくなった。いつか殺されるんじゃないかと思っていたかも知れない。日頃からお互いがやさしい関係であれば、たとえ喧嘩することがあっても、絶対に殺そうなんて思いつかないよ」

息子はそんな答え方をした。そして身体の点でも、親や兄にも抵抗できる体力が備わってくる年齢になったからではないかとも付け加えた。幼児の頃から常に虐げられて自分を抑えられてきた人間が、そのことによって心のバランスを著しく失っている。一方で身体の成長により得たパワーを持てあましている。それが、あるきっかけで結びつき、とんでもなく凶悪で、悲劇的な爆発を起こす。

先日ラジオを聞いていると、一連の尊属殺人について取り上げており、やはりなぜ「キレる」かということが問題になっていた。ある人のお話だと、「心の中の抽斗(ひきだし)の少なさ」がキレることの原因ではないかと言う。何か、自分に不都合が起こったときにも、心の中に多くの抽斗を持っている子は、その中から対応策をさがす術を持っている。

ところが、抽斗の数が極端に少ない子は、ことが起こると対応する力を持たずにキレてしまうというのだ。その抽斗の数は、小さい頃から親がいかに情操豊かに育てるかによると言うのである。

けれども、超がつくほどのスピードで移ろいゆく時代に、みんな必死になってしがみつくように生活するようになって久しい。親たちも、子どもとゆっくりと向き合って話をしたり、ともに何かを見つけたりする気持ちのゆとりが、間違いなくなくなっているのだろう。

15歳というのは、心の揺れの振幅がとても激しい時期だと思う。おぼろげながら現実社会が見えてきてはいるものの、まだ途方もなく非現実的な夢を持っていたりする。

私の息子も、ときどき突拍子もない夢を語り、私たち両親を当惑させている。現実性と非現実性が交互に顔を出してくる時期なのだろう。そして、それにより少しずつバランスをとっているのかも知れない。

親や兄を殺してしまった彼らは、いじめられたり、バカにされたりというくり返しのなかで、遂には現実的な回路が破綻し、それが大きな負のエネルギーになって、本人たちにとっても間違いなく非現実的であったはずの行為を引き起こしてしまったのだろう。

それを狂気と呼ぶのは、短絡的に過ぎる。みんなと同じように走り続けていたものが、ある時コースを誤ってしまい、戻り道が分からないまま、というより分からないが故に、がむしゃらに疾走してしまったのだろうという気がする。

そんなことを考えていたある日、カミさんが借りてきた1枚のDVDを観る機会があった。イタリアのナンニ・モレッティ監督・主演の映画「息子の部屋」。(これからご覧になりたい方は、少し内容に触れてしまいますのでご容赦ください)、突然、息子を海の事故で失った精神科医の父親と、その家族の物語だ。

その日、無理な往診に出掛けず、息子との約束を守っていれば、彼を死なせることはなかったという思いに、いつまでも苛まされる父親。この気持ちは痛いほど共感でき、万が一私がそんなことに遭遇したら、気持ちのバランスを保つ自信はまったくない。ただただ自らを呪い、人の話を聞くこともできずに、店も閉めてしまうだろう。

この映画の息子の年齢設定も15歳。私は、ここひと月あまり、ずっとこの年齢について思いを巡らすことになった。なにひとつ結論めいたものは見つけられず、私にとっては少し重い心持ちになるテーマだった。私の息子は、あと1週間で16歳になる。

 

 

第56回:夏休み観察の記