第263回:流行り歌に寄せて No.73 「硝子のジョニー」~昭和36年(1961年)
アイ・ジョージ。波瀾万丈な生き方をしている人である。最近はほとんど名前が出てくることはないが、稀にその名前を聞くときは、哀しいことに金銭トラブル疑惑などの当事者としてのそれである。
「自分しか信用できない人間が最も信用できる」と彼が語るその背景には、幼少時代からの数奇な生き方があるのだと思う。昭和8年、石油会社の役員だった日本人の父と、スペイン系フィリピン人である母の下に英国領香港で生を受ける。
3歳で母を亡くし、父の仕事の関係で香港、大連、上海、マニラなどを転々として暮らすが、裕福で不自由のない暮らしぶりだったようだ。ところが、父が出征したことにより彼の人生は暗転する。
父方の祖母と日本に帰り大阪で生活していたが、彼が香川県に疎開している間に祖母は空襲により命を落とした。孤児となった彼は、長野県飯田の果物農家に引き取られる。15歳の時、待望だった父と再会することが叶いそうになるが、身体の衰弱していた父はあっけなく他界してしまった。
その後は、パン屋や菓子屋で、住み込みで働いたり、運送屋になってみたり、ボクシングや競輪選手になったりと、職を転々と変えていったのである。
そして、米軍キャンプなどで流しをしていたことがきっかけで、紆余曲折があったものの、歌手として生活することができるようになった。
「硝子のジョニー」 石濱恒夫:作詞 アイ・ジョージ:作曲 アイ・ジョージ:歌
1.
黒い面影 夜霧に濡れて
ギターも泣いてる ジョニーよどこに
何時は消えてゆく 恋の夢よ
2.
赤い花束 泪にうるむ
何故か帰らぬ ジョニーよどこに
いつまた逢える日 淡い夢よ
3.
黒い太陽 まぶたに消えて
むなしいグラスよ ジョニーよどこに
語らんいついつ 恋の夢よ
日本人として初めてアメリカ合衆国のカーネギー・ホールで歌ったアイは紛れもなく実力のある歌手だが、それとともに、この時代としては珍しい「シンガー・ソングライター」でもある。
ラテンを始め、多くの洋楽のカヴァーをしてきた彼にとって、いろいろな曲のエッセンスが頭の中入っていたのだろう。『硝子のジョニー』は、当時の洋楽の流行りである三連符を使った、叙情性のある伸びやかな曲に仕上がっている。
一方、作詞家の石濱恒夫は、アイ・ジョージとはある意味好対照の、文学の人である。大正12年大阪で生まれ、東京帝国大学文学部に進む。在学中に、歴史学者の父、石濱純太郎の友人である織田作之助などの影響を受け、文学を志す。
学徒出陣で陸軍戦車部隊に配属されるが、同じ部隊には司馬遼太郎がいて、以来生涯の親交があったという。卒業後、川端康成に弟子入りし、川端の私邸に住み込むなどしている。
昭和28年、石濱が発表した『らぷそでい・いん・ぶるう』は、芥川賞候補となった。小説家としては、かなりの腕のあった人である。作詞家としても、地元大阪を舞台にして、フランク永井に「こいさんのラブ・コール」「大阪ろまん」などの詞を提供している。
ところでアイ・ジョージは、昭和35年から昭和46年まで、12年連続NHK紅白歌合戦に出場しており、『硝子のジョニー』は2年目の曲である。
私が4歳から15歳までの間のことだが、彼の歌唱はよく覚えている。情熱的でよく伸びる声。褐色と言える肌で、時には髭を蓄えてラテンの香りを振りまいていた。そして、彼には深紅のスポットライトがとても似合っていたという、強い印象が残っている。
-…つづく
第264回:流行り歌に寄せて
No.74 「東京ドドンパ娘」~昭和36年(1961年)
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