第108回:国際柔道連盟から脱退しよう
更新日2007/11/22
1964年10月23日、東京オリンピック柔道無差別級決勝は、日本武道館に1万5千人の観客を集めて行なわれた。そして、オランダのアントン・ヘーシンクが、日本の神永昭夫が掛けに行った体落としの技を崩して、袈裟固めで押さえ込み、9分22秒に1本勝ちをした。
ヘーシンク198cm、120kg、神永179cm、102kg。 身長で19cm、体重で18kgの違いをはねのけ、「柔よく剛を制す」結果を熱望していた日本人は、「日本柔道敗れる」の事実を認識するまでに、多くの時間を必要としたことだろう。
当時、田舎の小学3年生だった私も、袈裟固めが決まり、神永がもがこうと努力しても少しも動くことのなかったヘーシンクの姿が、草食動物を捕獲した獰猛な肉食動物のように見えて、怖くて仕方なかった。
直接は関係ないかも知れないが、私はこの試合が、その後柔道の「国際化」において、いろいろな意味で日本が苦しい立場に置かれていくわけだが、それの象徴的な序章のような気がしてならない。
私はついこの間、店のホームページで同じテーマについて書いたため、内容が重複するところも多いが、どうしてもこの項でも書いておきたかったため、双方を読んでくださった方にはご容赦いただきたいと思う。
19年前のソウルオリンピックあたりから、試合のスタイルと審判の判定がいわゆる日本本来の柔道の解釈から乖離し始めた。7年前のシドニーオリンピックでの100kg超級の篠原信一の決勝戦での判定(篠原の内股返しが正しく審査されなかった)は、今でも深く記憶に残っている。
その後もいくつかの大会でそれが指摘され、今年の井上康生と鈴木桂治のそれぞれの試合の判定で、それは決定的なものになった。
明らかに技が決まり一本が宣せられるところ、その後の相手の「返し」で敗れた鈴木桂治の試合の後、猛烈な抗議をしたが受け入れられなかった日本代表監督斎藤仁氏は、「こんなの柔道じゃねえ」と、吐き捨てるようにつぶやいた。
高校の頃、痩せっぽっちながら何とか毎日柔道部の稽古に励んでいた者として、そして、「かつての」柔道ファンとして、一言申し上げたい。
日本は、国際柔道連盟から即刻脱退すべきだと思う。
今、国際的に行なわれている「柔道」というものは、柔道の祖、嘉納治五郎先生が創始され(当時いくつかあった柔術のスタイルを整理、体系化して柔道としてまとめられた)、その後日本にしっかりと根づいてきた日本本来の講道館柔道とはまったく別物になってしまった。
「国際化」の名の下に、白と青の柔道着を渋々ではあっても認めさせられてしまうなど、加速度をつけて日本の柔道は形骸化していく。「白い道着、黒い帯、青い畳」のこの上なく美しい様式美を否定されたあたりから、もう柔道ではなくなっていたのだ。
そもそも、国際柔道連盟は1948年にロンドンで創設された欧州柔道連盟が、1951年に国際柔道連盟と名乗り、日本は翌1952年に「入れてもらった」もの。柔道の殿堂、講道館からできたわけではない。
今回の国際柔道連盟の選挙で山下泰裕氏が落選して、日本人の理事がいなくなったことでもあり、良い機会だと思う。潔く脱退しよう。
私は決してナショナリストではないが、こと柔道に関して言えば、欧州主体で作り上げた別物の武道におもねる必要はまったくないと考える。
そして、講道館柔道を少しずつ世界に広めていけばよい。時間はかかるが、それが正しい道だと思う。
判定方法は、「効果、有効、技あり、一本」などという細かいポイント制でなく、「技あり、一本」のみの本来の判定に戻し、審判の教育、育成を徹底して計り、正しい審判をする。
姑息なポイント稼ぎの戦い方を廃し、背負い、体落とし、内股などの技を、体裁きを磨いてお互いが繰り出す、スリリングな柔道スタイルを確立していく。試合時間も10分間に戻し、充分に戦わせるのだ。もちろん、道着は白一色、それ以外はあり得ない。
体重別も、軽、中、重量級、及び無差別級の4階級で充分だと思う。私たちが長い間忘れていた本当の柔道に回帰すべきなのだ。国際的な理解者を得るのに早急さは必要ない。繰り返すが、じっくりとその魅力が分かってもらうまで時間をかけて、地道に普及すればよい。
今立ち返らなければ、訳のわからぬ「柔道のようなもの」の存在に常に悩み、ひいては全く違う武道の中に身を置いて、「こんなはずではなかった」と思いつつ、方向性を完全に見失うことになるだろう。
74年前の松岡洋右による国際連盟の脱退は、その後の日本の国際社会からの孤立に結びつく蛮行であるが、今の日本柔道にとって国際柔道連盟からの脱退は、本来の柔道を継承していくために英断すべき道であると思うのだ。
第108回:ビバ、ハマクラ先生!