音羽 信
第4回: もうすぐ、激しく激しい雨が、降る by ボブ・ディラン
アルバム『The Freewheelin' Bob Dylan』より
どこにいって来たの?
青い目の私の息子
ねえ、どこにいって来たの
可愛くてまだ若い私の息子。
12の不思議な山沿いの道を
つまづきながら歩いた。
6つの曲がりくねったハイウエイを
歩いたり這いつくばって進んだ。
7つの悲しげな森の中を
一歩づつ歩いてもきた。
1ダースもの死の海が始まる場所にもいた。
入り口が一万マイルもある墓場にもいた。
激しく激しい
激しく激しい雨が
いまにも降りそうだった。
何を見たの?
青い目の私の息子
ねえ、何を見たの
可愛くてまだ若い私の息子。
生まれたばかりの赤ん坊を見た
赤ん坊の周りを野生の狼たちが取り囲んでいた。
ダイアモンドでできたハイウエイを見た
でもそこには誰もいなかった。
真っ黒な枝を見た。
枝からは血が滴り落ちていた。
男たちでいっぱいの部屋を見た。
男たちはみんな血みどろでハンマーを握っていた。
白いハシゴを見た。
ハシゴは水で濡れていた。
1万人もの人がしゃべっているのを見た。
でもその人たちの舌はみんな壊れていた。
たくさんのピストルと研ぎ澄まされた剣を見た。
ピストルや剣を握っているのはまだ幼い子どもたちだった。
激しく激しい
激しく激しい雨が
いまにも降りそうだった。
何を聞いたの?
青い目の私の息子
ねえ、何を聞いたの
可愛くてまだ若い私の息子。
雷が鳴るのを聞いた。
なんだか何かを知らせようとしているみたいだった。
海の唸り声を聞いた。
世界を丸ごと飲み込んでしまいそうな音だった。
百人の人が叩く太鼓の響きを聞いた。
太鼓を叩くどの人の手も燃えていた。
1万人もの人のつぶやきを聞いた。
でも誰も聞いていなかった。
飢え死にしそうな人のうめき声を聞いた。
その人のことを笑う声も聞こえた。
一人の詩人の歌声を聞いた。
でもその詩人は溝に落ちて死んでしまった。
ピエロの声を聞いた。
でもその人は路地で泣いていた。
激しく激しい
激しく激しい雨が
いまにも降りそうだった。
誰に会ったの?
青い目の私の息子
ねえ、誰に会ったの
可愛くてまだ若い私の息子。
ポニーと一緒にいる幼い子どもに会った。
黒い犬を連れた白人に会った。
体を燃やしながら歩く若い女性に会った。
私に虹をくれた若い女の子にも会った。
恋に悩んでいる紳士にも会った。
憎しみでいっぱいの別の紳士にも会った。
激しく激しい
激しく激しい雨が
いまにも降りそうだった。
これからどうするの?
青い目の私の息子
さあ、これからどうするの
可愛くてまだ若い私の息子。
雨が降る前に帰ろうと思う。
黒い森の奥の奥まで歩いていこうと思う。
そこには何も持っていない人がたくさんいて
そこには毒薬がいっぱい水の上を流れていて
そこには谷間の家と汚い湿った監獄があって
そこにはいつだって隠れていて見えない死刑執行人がいて
そこには惨めな飢えがあって忘れ去られた魂たちがいて
そこには黒色だけがあって 誰が誰かもわからなくて。
だから僕はそのことを
誰かに言ったり考えたり話したり、そのことを胸に吸い込んだりして
それで、僕はそのことを、光を反射させるみたいに
山の上からみんなの心に、それが映り込むようにしようと思う。
それで、僕は自分の体が沈み始めるまで海の上にいようと思う。
そしたらきっと、僕は僕の歌のことがよくわかると思う。
歌い始める前の僕の歌のことが。
もうすぐ
激しく激しい
激しく激しい雨が
激しく激しい
激しく激しい雨が
降る。
A Hard Rain's A-Gonna Fall -Bob Dylan
《The Freewheelin' Bob Dylan》 |
多くのディランのアルバムの中でも、私が最も好きなアルバム、当時のディランの恋人のスージー・ロトロとNYの街を寄り添って歩く写真のジャケットがあまりにも素敵で、思わずウットリとしてしまうような、大好きな歌がいっぱい入ったディランの実質的なデビューアルバムとも言えるセカンドアルバムの中の一曲。
語りかけに対して答えるフォークの伝統的なスタイルを踏襲してはいるけれど、ここでディランが繰り出す言葉の豊饒さは、そんな形式から、当たり前のようにはみ出してしまっている。
歌は多くの場合、1つの場面、あるいはもう1つの場面を巡って歌われる。ところがこの歌では、どのフレーズを取っても、そこから歌ができてしまいそうな場面が、次から次に歌われている。多分、この時ディランの体に不意にミューズが降りてきて、自分では止めようがなかったのだろう、と思う。
でもそこには、後のディランが展開することになる、警句や皮肉や黙示や憤懣や悲しみや動揺や悲観や諧謔やたくさんの比喩などが満載で、このままいったらどうなるのだろうと思わずにはいられないフレーズを繰り返しつつも、どこにいってきたの? 何を見てきたの? 何を聞いたの? 誰に会ったの? これからどうするの? と実に骨格のしっかりした問いが続き、そして最後に、歌うたいとしての自分の姿勢のようなものをちゃんと提示してみせるあたり、ディランは実にソツがない。
このソングライターは、時代が違えばもしかしたら、延々と続く叙事詩のようなものを歌う吟遊詩人になったのではないか、とつい思ってしまう。
こういう歌のつくり方は、多分、ディランにしかできない。というより、本当のことを言えば誰だって、その人にしかつくれない歌のつくり方があって、問題は、そのつくり方に出会えるかどうか、あるいはそれを自覚することができるかどうか。だから、この歌のディランのようにつくりたいと思っても、そう思えばそう思うほど、自分の歌からは遠ざかってしまいそうな気がする。この歌を聞いているとそんなことを思う。
そしてディランは、ボブ・ディランという人間の体を通して、その時その時に、自らの心身に触れたことに、思わず反応するように歌をつくって歌う。そこには実は、おきまりのメッセージのようなものは無い。あるとすれば、常に今という時代を、ここという場所で生きるディランが、自らの敏感な体で感じてしまった自分を取り巻く世界、といって大げさならば、自分のそばを吹き過ぎて行ったリアルな風の気配。心身の内に映り込んでしまって、歌にしてしまわなければ、いつまでも残ってしまいそうな場面(シーン)、あるいは気分。
この歌にはそんなディランのソングライター、あるいは歌い手としての姿勢や振る舞いのありようが見事に歌いこまれている。
2016年にディランは、ノーベル文学賞を受賞した。授賞式に列席することはなかったが、ディランは授賞式に、実にディランらしいメッセージを送った。そしてパティ・スミスがディランの代わりに、この歌を歌った。ロックの歴史の歴戦の勇者ともいうべきパティ・スミスが、その時なんと二度も、歌の途中で不意に立ち往生してしまった。ディランに憧れ、ディランと同じようにチェルシーアパートの住人になりたくて、ディランのようになりたくてアーティストになったパティ・スミスにしてみれば、無数の想いが、無数の場面が脳裏をよぎったのだろう。何を見てきたの? 何を聞いたの? 誰に会ったの? そんなフレーズを歌いながらパティは、自らが見てきたことが、聞いてきたことが、会ってきた人たちのことが、重なって見えてしまったのだろう。
私はこの歌と同じように、途中で声を詰まらせながら、ごめんなさい、と言って歌いつないだパティ・スミスのこの場面が、大好きだ。
Patti Smith performs Bob Dylan's "A Hard Rain's A-Gonna Fall"
- Nobel Prize Award Ceremony 2016
https://www.youtube.com/watch?v=941PHEJHCwU

Bob Dylan<1963/08/28>
-…つづく