野添千納
(のぞい・ちの)

パソコン通信黎明期よりパソコンをコミュニケーションの手段として使い続けるコンピューター&コミュニケーション・ジャーナリスト。33歳。

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第3回:コミュニケーションの教育

今からほんの100年ほど前では、まだ電気製品も珍しい存在だった。しかし、今日の暮らしでは電気はそこかしこに使われている。電気コンセントのない部屋は滅多に見かけないし、どんな部屋でも見渡せば、必ずいくつか電池を内蔵したモノが見つかるはずだ。

同様にこれからはどんな部屋でも、そして部屋においてあるちょっとしたものにも「インターネット接続機能」を常識として備えることになり、我々の日々のコミュニケーションや消費活動の中心もインターネット上に移行していく可能性が高い。  そんなインターネット全盛時代、もっとも重要な意味を持つのがコミュニケーションのスキルだ。

悪気もなく書いた電子メールを、相手に悪意に取られないように、相手の目(や耳)に、自分の発した情報がどう伝わり異なる環境条件によってどう解釈されうるかを想定して文を書き、声を発する能力。「これ以上は長すぎで疲れるだけ」と「これ以上、はしょると意図が伝わられない」の絶妙な均衡点を見いだして書いたり、話したりする能力。これらは、人と人のコミュニケーションというもののメカニズムを理解することで改善することができなくはないが、実際に自分で書いたり、話したりする実技の能力は結局のところ経験がものをいう。

アメリカなどの学校では生徒のイスが、教師を取り囲むように配置され、小学生の頃からどの生徒も、どんな授業でも積極的に意見を述べることが要求される。かたや日本の授業風景はというと、教えを授ける教師を前に、一緒くたに並べられる生徒たち。授業中は沈黙して教師の講義に耳を傾けることがよしとされ、教師に指されたときだけ発言するというイメージが浮かんでくる。そうでない学校が増えつつあることもたまに聞くし、コミュニケーションの授業を取り入れている先進的な小学校があるという報道も見聞きしたこともあるが、ほとんどの学校が旧態依然としたスタイルのままであることは事実だ。

少子化が騒がれ、学校がそこかしこに盛んに募集広告を出すような時代になったが、これはともすればいいことだと思う。教師1人当たりの生徒数を減らせば、それだけ生徒が発言する機会も増える。生徒数の減少で財政的に厳しくなるところもあるだろうが、そこをどう乗り切るかは学校経営者の経営手腕の見せどころだし、政治家の能力が問われるところでもあろう。

コミュニケーションを盛ん取り入れようとする教室が増えてきたとして、もう1つ生じるかもしれない問題がある。はたして教師側に生徒たちとうまくコミュニケーションをしていく能力があるかどうかというものだ。最近増えた教師による不祥事の報道を見ていると暗い気持ちになる。

私も偉そうなことが言える立場ではないが、1つだけ経験則を言わせてもらおう。  コミュニケーションでもっとも大事なのは、相手を理解すること。狭い社会、同じ言葉や生活態度の人間ばかりの中で暮らしていると、どうしてもこの能力を伸ばすことができない。人生に一度は、さまざまな人種(異なる宗教や文化的背景を持つ人々)が入り乱れる環境で1~2年過ごしてみればいい。こうすれば世界観は変わってくる。そんなことは若い人にしかできないという「大人」たちもいるかも知れないが、そこは考え方1つ。年齢を言い訳にしてはいけない。

 

→ 第4回:会社でも業界団体でもない組織


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