■亜米利加よもやま通信 ~コロラドロッキーの山裾の町から


Grace Joy
(グレース・ジョイ)



中西部の田舎で生まれ育ったせいでょうか、今でも波打つ小麦畑や地平線まで広がる牧草畑を見ると鳥肌が立つほど感動します。

現在、コロラド州の田舎町の大学で言語学を教えています。専門の言語学の課程で敬語、擬音語を通じて日本語の面白さを知りました。




第1回~第50回まで

第51回:スポーツ・イベントの宣伝効果
第52回:国家の品格 その1
第53回:国家の品格 その2
第54回:国家の品格 その3
第55回:国家の品格 その4


■更新予定日:毎週木曜日

第56回:人はいかに死ぬのか

更新日2008/04/17


私の両親はニ人ともまだ健在とはいえ、大きな健康上の問題を抱え、何時本格的に入院してもおかしくない状況です。毎週日曜日の午後に別に用事はないのですが電話をし、ただ雑談をするのが、この2、3年の習慣になっています。

母と父のニ人だけで居てもそんなに会話がないのか、私が電話するとニ人とも争うように喋りまくり、近況報告だけでなく、私が赤ちゃんの時の昔話まで持ち出し、最低一時間は電話を切ることができません。

このごろ毎週のように話題になるのは、誰それのお葬式に行ってきた、誰それが亡くなったという死んだ人の話です。なにか、お葬式に参列するのが趣味、習慣になっているかのように、大変な数のお葬式に出ているのです。まだ自分たちは参列する側で、参列される方ではないけれど、と冗談めかして言っていますが、親類や友達がポツリ、ポツリと消えていくのはいかにも寂しそうです。

私のダンナさんが読んでいる『文芸春秋』をパラパラと覗き見したところ、ガンの記事と死んだ人の記事が多いのにいつも驚かされます。"見事な死"と言うタイトルの下に52人の有名人が亡くなった時の様子を、親しい人、最後を看取った人などが一文を寄せている特集がありました。

残され、生き残った者が死んでしまった人へ贈る追悼の文章と言ってよいでしょう。それは残された人が一つのフンギリ、自らを慰める惜別として書いたものでしょう。

そこに書かれている亡くなった人のほとんどを私は知りません。どのように死を迎えたか、ドラマッチックにまたは平穏に眠るように死ぬか、当人にとって選択の余地がなく、比較できる性格のものではありませんし、自分はこんな死に方をしたいと思ったところでかなわぬことです。

もともと人間の死は"見事"なものではありません。一つの消滅です。"見事な死"など存在しないと思うのです。万が一そんなものがあるとすれば死自体にあるのではなく、生き残った人が見事だったと思いたがる心理が生んだ慰めでしかありません。

優れた著作を沢山残した哲学者や小説家が、アルツハイマーで支離滅裂な晩年を迎え、惨めな死に方をしようが、誰もが憧れる清純な少女スターが老醜の末、亡くなろうが、それらの人が残した作品や周囲の人に輝きを与えた生き方を否定できるものではありませんし、そんな死に方が"見事でない"とは言い切ることはできませんし、"見事な死"に憧れるのは一つの逃避であり、危険な思想だとさえ思うのです。

私は、"見事な生き方"はあるけれど"見事な死"というものはないと考えています。死それ自体、醜いものであり、残酷な永遠の別れなのです。

そんな私に、ダンナさんは、「ヤッパリ、お前は外人だな。(アッタリマエでしょう、私は今も昔もズーッとコーカソイドのアメリカ人で日本人であったことも男であったこともありません)武士の切腹は極端な例だとしても、自分の人生の最後の瞬間をどのように迎えるか、たとえ選択の余地がないにしても、理想の終焉を迎えたいという意思は、一つの思想なんだ」と分かったような分からないようなことを言っています。

日本に"お迎えが来た"という表現があることを知り、感動しました。いかにも、生命が燃え尽き、火が消えるように亡くなり、自然の摂理を静かに受け入れている生き方が言い尽くされているように思います。見事に生きた人だけが、静かな気持ちで"お迎えを"受け入れることができるのではないか……と想像しているのです。

 

 

第57回:人はいかに死ぬのか その2