第132回:オリンピックに想うこと その1
更新日2009/10/22
2016年のオリンピックは、残念ながら東京は破れ、リオデジャネイロに決まりました。
テレビのスペイン語チャンネルのニュースでリオに決まったときのコパカバーナ海岸に集まった市民の様子を流していましたが、有名なリオのカーニバルが瞬時に5倍のエネルギーで爆発したかのような騒ぎでした。
紙吹雪、テープが飛び交い、国旗が波のようにゆれ、跳びあがる人、踊り出す人、誰かれ構わず抱き合い、何万人ものブラジル人が体全体で喜びを表わしている光景を見たとき、シカゴや東京でなくて、リオに決まって良かったかな、と思いました。
ブラジルの大統領、デ・シルバの勝利宣言も、サンバのリズムにのった笛やタンバリンの歓喜の中にかき消されてしまうほどでした。これが東京なら、都の職員がバンザイ三唱して、皆様のおかげですと頭を下げるだけで終わっていたのでしょうか、東京都民やシカゴ市民がリオの市民ほどの感動を表したとは思えません。
アメリカのメディアは、リオに決定したことを祝福しながらも、問題点を指摘し、リオ・オリンピックに危惧を抱くような記事を載せています。曰く、リオの殺人は10万人に対して47件、これはシカゴの3倍だそうですし、2007年に立てたリオのオリンピック関連予算を分析し、2016年の開催まで、当初の予算のほぼ10倍に当たる1兆4千億円(14億ドル;1ドル=100円として)が必要になり、そんなお金はブラジルの今の経済、国家予算からはどこをどうヒネッタところで出てこないと、スタジアムの建設費用、ホテル、選手村の建設、道路交通網の完備、警備の安全などにかかる費用を詳しく分析して、大いに危うんでいます。
北京オリンピックの時もそうでしたが、日本や西欧の国々がまるで成功し、大金を稼いだ企業家が若く貧乏な甥っ子の将来を危ぶむような"果たして大丈夫だろうか論"が、マスコミに随分載っていました。これこそ全く余計な心配というものです。そのような論評には驕り(オゴリ)の臭いが付きまといます。
ブラジルはリオデジャネイロで開くのなら、リオ風にブラジル風にやるのが良いのです。選手村だって、プレハブもしくはテント村で結構、選手の移動もリオで盛んに使われている乗り合いタクシー、公共のバスで結構、莫大なお金で落札される放映権を握るテレビ局(恐らくアメリカかヨーロッパ、日本の会社でしょうね)なら、カメラや取材用通信機材のほか、自前で宿舎用のキャンピングトレーラーを20~30台持ち込むのは微々たる出費でしょう。膨大な数になる報道陣は、自分で自分の世話をしろ、で良いのです。なにもホテルに泊り込む必要はないのです。
メキシコシティーオリンピックの時に、選手は高原にあるメキシコシティーでの競技に備え、皆が皆高地トレーニングに励みました。リオのオリンピックに参加する選手も、テントのパイプベッドに寝て、蚊やコモゴモの虫に刺され、市内での盗難強盗に備える覚悟で訓練を積めばよいのです。そんな環境に弱い、甘やかされてきた西欧のスポーツオタクたちは早々に下痢や風邪、虫刺されにダウンし、逆にアフリカ、アジアの貧しい国からの選手が活躍するかもしれません。それでいいではありませんか。
なにも、派手派手しい立派な会場を造り、西欧的な設備を備えることがオリンピックを成功させる要因ではないと思います。
アメリカのメディア(「Time」ですが)が試算したように、天文学的なお金がかかるのなら、将来、アフリカの国々、東南アジアの国々でオリンピックが開かれる可能性はゼロになってしまいます。オリンピックはお金持ちクラブ的な国のオアソビになってしまいます。もうすでにそのような傾向が見えていますが。
私が生きている間に、ジンバブエ、リマ、フィリッピン、ビルマでオリンピックが開かれる可能性はないのでしょうね。
第133回:オリンピックに想うこと その2