原園 綾
(はらぞの・あや)

1967年生まれ。世田谷区立赤堤小卒。ニューヨーク在住。大きくなったら何になろうかな?

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第1回:進化論などゲコゲコ

ヘロー!ニューヨークで勉強してるカッパでやんす。こっちは乾燥してるから頭のお皿がすぐ乾いちゃう。やっぱり日本の風土にあってるのね、ワタシ。十年振りに大学に行ってるよ。手始めに先月まで「進化論」の授業をとってました。明らかにカッパの知識不足、英語力不足もあるので、だからかえって専門的でない面白い話をピックアップして書けるかなーと思ってます。よろしく。ゲコッ。

「進化」といえば、遠い昔の単細胞生物から今ある植物や動物へという、イメージでは学習図鑑にあるような遠い昔の化石や骨や復元図とか、わりと古くさいでしょ。でもさ、進化って現在で終結する生物のサクセス・ストーリーではなく、今も進行している、そして少なくともヒトにとっては先のわからないエンドレス・ストーリーなんだよん! もしかしてヒトの歴史が終わることはあるかもしれないけど、その後にも残る生命は意外と沢山あるかもしれない。もしくはヒトが環境と共に随分進化してヒトから枝別れした別の種として生命が残ってゆくかも。それに地球に命が無くなったって、宇宙にはある可能性はありあり。

今を起点に過去を見ようとすると、学校の歴史の授業でも同じだけど、「いろいろあって今がある。苦労したり失敗したからこんなに安定して充実した世の中に完成したのだ…」的感覚に陥りやすいじゃない?こと豊かで平和とされる日本では。決して今が完璧ではないし、おそらく完成という状態自体がいわゆる世界史にも地球や宇宙の歴史にもないのにね。

昔は「ヒトが神の手による最高傑作」的観点で見てるから、進化論では劣った動物が駆逐され、環境の変化に適応できないものが絶滅したりして、今ある優秀な生物が生き残ったという説明が好まれた。自然界の法則として「生存競争」、つまり競争(Competition)の原理を都合のいいように引き合いに出して。ところが、ミクロな研究が進むにつれて、必ずしも進化の裏に働いているのは競争だけでなく協力(Cooperation)もあるのではないかという話も出てきたの。バクテリアが他の細胞の中に入って共存し、周辺にある成分をお互いより効果的に使い必要な成分をつくることができる一つの生命体になったと思われる例があったりするから。細胞内にあるミトコンドリアや葉緑体、あとミドリムシなどもそうね。

授業では「でもそれって、小さい方が大きい方に取り込まれちゃって、競争で負けたんじゃない」という意見と、それに対して「お互いにとって利益のある形になったから、これは協力だ」という議論が続いたの。私は傍らで「ゲコゲコゲコーッ!」。まるでレトリックのトリック合戦みたいになっちゃったけどね。たしかに取り込まれても守られて存続しているなら、絶滅したのとは訳違う。はっきりしているのは、生命体として必須の「いかに生き残るか」という戦略は消えてない。命はしたたかなのだ!

私たちはべつに進化の終点にいるのではなく、これからも脈々と続く流れのどこかにいるでゲコ。ながーい流れのなかで、我々が、私が、どこにゆくのか。それを考えるためには、私たちがどうやってここまで来て、今どのような状態でどんな位置にいるのかを知らなければならない。そうやって全体像の中の自分(たち)をmappingすることは、とっても興味があるし、大切なことだと思うのだす。さまざまな尺度を用いれば、それは「私」のことであったり、「日本」のことであったり、「人間」のことであったり、「地球」のことであったり…。今の自分をきっかけに過去と未来に想いと、願わくば知性を馳せる。これってロマンじゃーん!イェーイ!ゲッコー!

 

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