第255回:流行り歌に寄せて No.65 「アカシアの雨がやむとき」~昭和35年(1960年)
西田佐知子は、私の最も好きな女性歌手の一人である。いわゆるノン・ビブラートと呼ばれる抑揚を押さえた歌い方は元より、クールな顔立ちも含めて、彼女の虜だとも言える。
だから舞い上がって、彼女の礼賛に終始する文章にならぬよう自戒しながら、このコラムを書いていくのに一苦労するほどである。
西田佐知子は、昭和14年1月9日、大阪市城東区に生まれる。高校時代の昭和31年の9月、『伊那の恋唄』という曲で日本マーキュリーから「西田佐智子」という名前でデビューする。
昭和33年には日本コロムビアに移籍。「浪花けい子」の名前で何曲かを吹き込んでいるが、この芸名、当時ご本人はどう思われたのだろうか、一度聞いてみたい気はする。そして昭和34年、今度はポリドールに移って、西田佐智子名義に戻り、『夜が切ない』を発売した。
この『アカシアの雨がやむとき』は、昭和35年に発表されたポリドール移籍後4曲目の曲だが、当時は普通に行なわれていた、A面B面別の歌手による吹き込みで、もう片面は原田信夫の『夜霧のテレビ塔』という曲だった。
当時のレコード・ジャケットには、イラストのテレビ塔(おそらく当時できたばかりの東京タワー)を背景に、原田信夫の、同じくイラストの公園のベンチを背景に西田佐智子の写真が、ほぼ同じ大きさで掲載されている。イラストは薄いブルー、写真は黒のいわゆるツートンカラーである。
その後、この曲の大ヒットにより彼女の方をA面として、ジャケット写真もフルカラーで彼女だけが写っている盤が出たときの名義は、「西田佐知子」に変更されている。いつから、芸名が完全に佐智子から佐知子に変わったのか、ご存知の方にはぜひ教えていただきたい。
「アカシアの雨がやむとき」 水木かおる:作詞 藤原秀行:作曲 西田佐知子:歌
1.
アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい
夜が明ける 日がのぼる 朝の光りのその中で
冷たくなった私を見つけて あのひとは
涙を流して くれるでしょうか
2.
アカシアの雨に泣いてる 切ない胸はわかるまい
想い出の ペンダント 白い真珠のこの肌で
淋しく今日も暖めてるのに あのひとは
冷たい眼をして 何処かへ消えた
3.
アカシアの雨がやむとき 青空さして鳩がとぶ
むらさきの 羽の色 それはベンチの片隅で
冷たくなった私の脱けがら あのひとを
探して遥かに 飛び立つ影よ
国会前、全学連、樺美智子さんの遺影を抱えてのジグザグ行進、警察隊との衝突、放水、浅沼委員長暗殺……一連の60年安保闘争の記録フィルムがテレビに映し出されるとき、まるでそのテーマソングのように、この『』アカシアの雨がやむとき』が流れることがよくある。
確かに、その年にタイムリーに発表された曲であり、闘争に敗れた労働者、学生や多くの市民にとって、"静かな諦め"に誘(いざな)う気配を持ったこの曲は、彼らの心の中に深く染み込んでいったことだろう。
ただ、作詞家の水木かおるは、芹沢光治良が昭和18年に発表した小説『巴里に死す』の主人公・伸子の姿をモチーフとして、この詞を書いたとされている。そのことを聞かされた西田佐知子も、パリをイメージしながら録音したという。
1960年の安保闘争と、1920年代のパリ。その醸し出す空気感にどこか共通するものがあるのだろうか。あるいは、それは頽廃と呼ばれるものなのか。
詞とともに、作・編曲家の藤原秀行が紡ぎ出したメロディーも、あの時代の人々の心を掴む力を持っていたのだろう。感情の高まりをギリギリのところで押さえながら、その旋律は展開していく。
イントロは諄々と人の心を諭してくれるような、エンディングはまさに空高く、屈託した思いを解き放ってくれるような、そんなトランペットの音色も、この曲には欠かせない要素だ。
私は、おそらく何百回とこの歌を聴いているが、その度にただただ聴き入り、最後に小さくため息を漏らしてしまう。うん。
水木、藤原、西田トリオには、この後も私の大好きな曲が目白押しなのである。『死ぬまで一緒に』『エリカの花散るとき』『東京ブルース』『博多ブルース』『裏町酒場』・・・。
放っておくと、全部について書きたくなるのでブレーキをかけることにするが、他の作詞・作曲家の作品も含めて、さてこれから何回彼女の名前がこのコラムに登場するか、自分でも見当がつかない。やはり、かなり舞い上がってしまっているようである。
-…つづく
第256回:流行り歌に寄せて
No.66 「潮来花嫁さん」~昭和35年(1960年)
|